富木常忍の母の死を受けて
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建治2(1276)年3月のある日のことと推定されるが、身延の山中に籠居をつづけてきた日蓮は、その年の2月下旬にみまかった母の遺骨を頸にかけて、下総国千田庄若宮の地からはるばる訪ねてきた大檀越富木常忍を草庵に迎えた。まさしくこの常忍にあてて日蓮は、鎌倉を退出して甲斐国波木井の郷に着いた文永11(1274)年5月17日のその日に書状を認め、そこへの着到を報じるとともに、孤存への志向をも伝えたのであったが、そのときから満2年近くを経て、日蓮と常忍との再会が行なわれたのだ、とみられる。ところで、その再会の情景を報じているものに、日蓮の2通の書簡がある。1通は、〔建治2年〕3月27日の日付をもつ、常忍の妻あての書簡(冨木尼御前御書)であり、もう1通は同年同月中のものと考えられる、常忍その人にあてられたそれ(忘持経事)である。
次に、定本211によって、常忍の妻にあてられた前記の日蓮書簡の冒頭の部分を掲げよう。
鷲目一貫址〔に〕 つつ(筒)ひとつ給〔ひ〕候了〔ぬ〕。
やのはしる事は弓のちから、くものゆくことはりう(龍) のちから、をとこのしわざは女
のちからなり。いまときどののこれへ御わたりある事、尼ごぜんの御カなり。けぶりをみれ
ば火をみる。あめ(雨)をみればりうをみる。をとこを見れば女をみる。今ときどのにけさ
ん(見参) つかまつれば、尼ごぜんをみたてまつるとをぼう。ときどのの御物がたり候は、
このはわ(此母)のなげきのなかに、りんずう(臨終)のよくをはせしと、尼がよくあたり、
かんびやうせし事のうれしさ、いつのよ(世)にわするべしともをぼへずと、よろこばれ候
なり。この一節を読んで心に留まるのは、常忍の母の生前・死後にわたる、常忍の妻のまめやかな振舞と行きとどいた心づかいに日蓮自身がとりわけ感動し、そのことについて常忍の妻を心をこめて賞讃している一事である。日蓮は常忍の身延入来を適切で好ましい行動とみた。しかし多くの困難を伴なうはずの身延入来が可能にされたその背後に、常忍の妻の思いやりと支持が働いていることを日蓮は洞察した。それだけではなく、故母の看病に打ち込んだ妻の至情に感激する常忍の言葉を、おそらくはそのままに常忍の妻に伝達することを日蓮は自分自身のよろこびとも考えた。この書簡の後半が明示しているように、また、その前年の文永12(1275)年2月7日に系けられている常忍の妻あての日蓮書簡(可延定業御書)も語っているように、常忍の妻が年来病身であることを日蓮は承知していた。だから日蓮は、常忍の妻が病躯をおして看病にあたったのであることを、想像しえたはずだ。その故にまた日蓮は、常忍の感激をその妻に伝えることを義務のようにも感じたことだろう。いずれにしても、常忍の妻にあてられた日蓮書簡では、常忍の母の死に際して自然に展開された常忍夫妻相互の間の、情愛にみちてしかも折目正しい交渉が言い現わされているのであって、常忍の母の死そのものについては、わずかに、「りんずうのよくをはせし」と常忍が日蓮に告げたことだけが記されているに過ぎない。それと同時に注意されるのは、常忍の母の死に.ついて日蓮が、常忍の要に向かって弔慰の言葉らしいものを少しも述べていないことである。これは、書簡の相手が死者の子女ではなくて、死者の子の妻に他ならず、必ずしも弔慰の言葉を受けるぺき立場のものではないことを日蓮が意識したかも知れぬ結果である、とみるよりも、次に述べるように、母を失なって自失する常忍の傷心と苦悩が、日蓮の介在によって頓に解消していったことを日蓮が目撃し、母子一体の法悦のうちに母子の同時成仏を常忍が実感するにいたったことを日蓮が確信したことの、自然的帰結であった、というべきだろう。常忍は、日蓮の身延草庵において、もはや何びとの弔慰の言葉をも必要としない強靭な存在へと自分を上昇させていった。その常忍と信仰を等しくしているその妻に向かって、いまさららしく弔問の言葉を書き送って何になろう。日蓮は、意識の底で、たとえばそのように感じたのではなかっただろうか。しかし、このような想像の当否をたしかめる意味合いからしても、常忍における母子同時成仏の実感を伝える、常忍あて日蓮書簡について、いささか立ち入った考察を試みる必要がある、と思う。
建治2(1276)年3月に比定せられている常忍あてのこの書簡は、日蓮を訪ねた常忍が不覚にも置き忘れてきた持経を人づてに送りとどけることにした日蓮が、そのことにかかわって常忍に書き与えたもので、古来、『忘持経事』と呼ばれてきた。その前半で諧謔まじりに「忘却論」というぺきものを展開させつつ諸宗批判を行なったこの書簡は、数多い日蓮遺文の中でもユニークなものといえるだろう。しかし文の様式と話法の点だけではなく、内容の上でもいっそう独自なものは、むしろその後半であり、「死者」の常忍の母と「生者」常忍とのかかわり方についての、常忍その人と日蓮とにおける意識のあり方とその動的展開には、他の遺文では発見できないような一種独特の宗教体験の内実に触れる諸事態が認められる。私に段落を設けて、定本212により、この書簡の後半を左に掲げよう。
a 今、常忍、貴遽は末代の愚者にして、見・思未断の凡夫也。身は俗に非ず、道に非ず、禿居士たり。心は善に非ず、悪に非ず、羝羊たるのみ。然りといへども一人の悲母堂に有り。朝に出でて主君に詣り、夕に入りて私宅に返る。営む所は悲母の為、存する所は孝心のみ。而るに去月下旬の此、生死の理を示さんが為に黄泉の道に趣く。
b 此に貴遽と歎いて云く、齢既に九旬に及ぶ。子を留めて親の去ること次第たりといへども、倩事の心を案ずるに、去て後来るべからず、何れの月日をか期せん。二母国に無し、今より後誰をか拝すぺし、と。
c 離別忍び難きの間、舎利を頸に懸け足に任せて大道に出で、下州より甲州に至る。其の中間往復千里に及ぶ。国々皆飢饉して山野に盗賊充満し、宿々粗米乏少なり。我身は粛窮にして所従亡きが若く、牛馬も期に合せず。峨々たる大山重々として、漫々たる大河多々なり。高山に登れば頭を天に椊ち、幽谷に下れば足雲を踏む。鳥に非ざれば渡り難く、鹿に非ざれば越え難し。眼は眩き足は冷ゆ。羅什三蔵の葱嶺・役の優姿塞の大峰も只今なり云云。
d 然る後、深洞に尋ね入りて一庵室を見る。法華読誦の音青天に響き、一乗談義の言山中に聞ゆ。案内を腐れて室に入り、教主釈尊の御賓前に母の骨を安置し、五體を地に投じて合掌し、両眼を開きて尊容を拝するに、歓喜身に餘り、心の苦み忽ち息む。我頭は父母の我足は父母の足、我十指は父母の十指、我ロは父母のロなり。譬へば、種子と菓子と、身と影との如し。教主釈尊の成道は浄飯・摩耶の得道なり。吉占師子・青提女・目犍尊者は同時の成佛なり。是の如く觀ずる時無始の業障は忽ち消え、心性の妙蓮は忽ちに開き給ふか。然して後に隨分佛事を爲し、事故なく還り給ふ云々。恐々謹言。
富木入道殿
『忘特産事』 の後半部は、以上のように4段に分けられるだろうが、それぞれの段は、前に示唆したように、文の様式・話法と内容との二面において互いに区別せられる。a段では、日蓮は常忍を対話の相手方として設定しつつ、悲母の死という事件の悲劇性についての常忍の自意識の構造と深さをあらためて確認している。b段は、身延の草庵において日蓮と常忍との間で実際に歎き交されたであろう対談の再録とみられ、そこでは、常忍の不幸と悲痛な心情への日蓮の内面的参与が示唆されている。c段では、常忍の身延行の肉体的辛労と苦痛がいわば第三者の立場において客観的に記述せられている。d段では、傷心と苦悩の境界を超出して強靭な信仰者的存在へと自己を急上昇させていった常忍の宗教体験を、複雑な構成のもとに、日蓮は言い現わそうとしている。すなわち、「歓喜身に餘り、心の苦み忽ち息む」にいたる最初の一節は、日蓮の草庵に参入した常忍が奇しくも経験することのできた、輝かしい宗教体験の客観的描写とみられる。「我頭は父母の頭」から「同時の成佛なり」にいたる次の一節は、右の宗教的体験の過程に即して常忍が自覚化し、体得していったはずのものとして日蓮が想定するところの、信仰命題の提示とみられよう。「無始の業障」の消滅・「心性の妙趣」の開花について説く次の一節は、右の信仰命題の自覚化の結果として、常忍の身上に実現したはずの宗教的利益についての、日蓮の洞察の開陳と考えられよう。最後の一節は、異常の宗教体験につづく常忍の行実についての、日蓮のメモ的報告である。ところで、以上概観した四段によって構成せられている全文の執筆意図は、常忍の宗教体験の経過と意味についての日蓮の認識と評価を、整理したかたちで常忍に伝達することにょって、常忍の宗教体験の尊貴な意味を常忍の意識の中に定着させようとした点に存するのではあるまいか。しかし、全文の意図をこのように理解しうるためには、四段のそれぞれについて、また、その全体についていっそう立ち入った検討を要するだろう。
a 段で日蓮は、常忍を「末代の愚者」、「見・思未断の凡夫」と規定している。しかしこのような規定は、煩悩論上に生死海における流転を論結しょうとする通大乗仏教の衆生観のいわば類型的表現に退ぎないのであって、そこに常忍という一人布の個性化的認識がなされているわけではない。「身は俗に非ず、道に非ず、禿居士たり」の一句にいたって、ようやく常忍の個性化的把接がはじまる。常忍は下総国千田庄若宮に居住する一人の武士ではあるが、日蓮の教化に浴すること長く、すでに入道して、諸文書に「沙弥常忍」と自署している。しかも彼は、日蓮の存生中、たんに在俗の一入道に過ぎず、後に出家して常修院日乗と名乗り、今日の中山法華経寺の前身法華寺を開いてその初祖となったが、それは日蓮の没後においてである。「堂に有り」と記された「一人の悲母」とは、文永12(1275)年2月7日に系けられている常忍あて日蓮書簡(冨木殿ご返事)に、常忍が日蓮に贈った「幡ー領」の作り主として記されている「齢九旬にいたれる悲母」その人に他ならない。その「唯一領」のやりとりに示された常忍とその母、その両人と日蓮との間の切ないはどに曖い心情の流れは、「死者」となった母、常忍、日蓮の類稀れなかかわり方の秘密を解き明す鍵ともみられよう。すなわち、その書簡に日蓮はこう記している、「此(=椎一領)は又、齢九旬にいたれる悲母の、愛子にこれをまいらせさせ給〔ふ〕。而〔も〕我と老眼をしぼり、身命を尽〔く〕せり。我子の身として此幡の恩かたしとをぽしてつかわせるか。日蓮又ほうじがたし。しかれども又返〔す〕ぺきにあらず。此幡をきて日天の御前〔に〕して此子細を申〔し〕上〔げ〕ば、定〔め〕て釋梵語天しろしめすべし。幡一なれども十方の諸天此をしり給〔ふ〕べし。露を大海によせ、土〔を〕大地に加〔る〕がごとし。生々に失せじ、世々にくちぎらむかし」。
その「悲母」の存在を生活意識の中核にすえたのが、常忍の日常生活に他ならなかったことを強調して日蓮は、「朝に出でて主君に詣り、夕に入りて私宅に返る。営む所は悲母の為、存する所は孝心のみ」と記した。常忍が誰れの家臣であったかは明かではないが、彼が一人の主人に仕えていたことは確実だ。しかし、「悲母」こそが常忍存在の意義を形成していたのだ、と日蓮はみていたわけである。その悲母が建治2(1276)年2月下旬にみまかったのであるから、それは常忍からその存在理由がうばわれたに等しい悲劇を意味した、といえるだろう。
b 段は、前に指摘したように、身延の草庵における日蓮と常忍とで歎き合われたであろう対談の記録とみられる。事の経過からすれば、このb段の記事はc段の後に置かれるぺきものであろうが、常忍をして身延登詣を決行させた理由と動機を明かにしておくぺく、日蓮はあえてここに身延での対談を挿入したものでもあろう。この段ではまず「齢既に九旬に及ぶ」として故人の行年が挙げられている。唯一領が贈れたことにたいする前掲の日蓮の礼状にも、「齢九旬にいたれる悲母の」という表現が見出される。長福寺日順の『御書略記』には、常忍の母について「建治2年3月4日93歳にて死去なり」という伝承が録されているが、確証はない。いずれにしても、齢90歳か、または、それに近年齢で没した故人の遺骨を前にして対座する二人のうち、日蓮は数え年で55歳に達している。これに対して常忍は、『本化高祖年譜攷具』上、32に「正安元(1299)年3月20日寂、年八十也」と伝えられているところから逆算すると、57歳になっていたはずだ。両者の交渉を振りかえってみると、紙背書簡として現存している常忍あて日蓮の書状(冨木殿御返事)が建長5(1253)年12月9日のものと考えられているところからすると、おそくも日蓮32歳の頃には師弟の交わりがすでに始まっていたことが知られる。それからの20余年にわたる両者の密度の高いかかわりは常忍に与えられた数多い日蓮の書簡のひとつびとつが明示している。日蓮は多難な生涯の節目ふしめには、常忍にたいして、自覚された節目について報告した。流刑地佐渡への渡島目前にひかえて、越後の寺泊から書き送られた文永8(1271年10月22日付書簡(寺泊御書)、鎌倉から波木井への着到を報じた文永11(1274)年5月17日付書状(冨木殿御返事)などは、いずれも常忍へあてられたものに他ならない。しかし、日蓮が常忍に書き与えたのは書簡だけではなかった。最高度の教義内容を備えた『親心本尊抄』、『法華取要抄』のごとき論著もまさしく常忍や、またはその檀越グループに贈られた。また、常忍にあてられた書簡は、しばしば日蓮随自意の高次元の法門が展開され場とされた。このことは、常忍に日蓮の教義の幽玄なニュアンスをも理解し、吸収する能力があったことを物語っているだけではなく、まさに常忍を対象とした場合に、日蓮は自己の敦説を自由に展開させることが可能であったことをも、多分意味するだろう。この辺の消息については後節で触れられるだろうが、日蓮と常忍とは、以上のような濃密なかかわりの共通経験を背後にして、身延の草庵で対談したのであることに注意したい。このようにして日蓮は、「子を留めて親の去ること次第たりと雖も、去つて後来るぺからず、何れの月日をか期せん」と愁訴する常忍の欺きを、同様に母を失っている自分自身の、全く同一の嘆きにおいて受け止めたことだろう。「二母國に無し、今より後誰をか拝すぺし」の語句は、常忍の嘆きに日蓮のそれが重ねられた、異口同音の言葉ではなかっただろうか。ここの「二母」の意味については古来説があり、弘経寺日健はいわゆる『健砂』巻17、34で「二母無國とは、母と云者が二人りも有らばや」の意と解し、岩波書店版『日本思想大系』14、『日蓮』は「自分(=常忍)の母と妻の母の意か」と注している。しかし、「貴邊と嘆いて云く、(興貴邊歎云)」、「二母國に無し(二母無國」の語句に注意を払いつつ対談の情景を想像してゆくと、ここで「二母」とは、日蓮の母と常忍の母との二人を意味するだろうことが合点せられる。殊に「國に無し」の一旬は、つねに故郷安房国を想望しつつ身延に住む日蓮にとってこそ、特に適わしい、と考えねばなるまい。
c 段に入って日蓮は、常忍が決行した身延往復の労苦を、いわば第三者の立場へ立ちかえってーーしかし、時に誇張に流れる同情者の情感をこめてーー記述するのであり、それはそれとして注意すべき内容を備えてはいる。しかし、常忍の身延登詣の意義にかかわって重要であるのは、段初の「離別忍び難きの間、舍利を頸に懸け ・・・下州より甲州に至る」の一文である。老母の死によって自分自身の存在理由を見失うにいたった常忍の虚脱感、母との再見を不可能にされた常忍の別離の痛苦、その双方を c段冒頭で「離別忍び難」しと日蓮は総括したうえで、まさにそのことを理由として、常忍は身延登詣を敢行するにいた「たのだ、と日蓮は説明するわけだ。思うに、日蓮にと っ ても常忍にと っ ても、このような簡略な表現で十分意は尽せたのだろう。しかし、当事者ならぬわれわれとしては、「離別忍び難」い常忍の心情と身延登詣との因果関係につき、いっ そう立ち入 っ た説明を求めざるをえない。そして、その説明として、身延登詣行動の過程とその極とにおいて実現されるでもあろうところの、離別苦克服の可能性への期待あるいは願望が挙げられるべきではあるまいか。いったい、「舍利を頸に懸け下州より甲州に至る」底の常忍の行動は、まだこの時点においては、日蓮の弟子・檀越たちにとって、常例の行為ではなく、いわんや慣習化された葬送儀礼の一節を形成してはいなかったように考えられる。身延入山後の多数の日蓮書簡の中、常忍の場合に類した行動のとられたことが明示されているものとしては、わずかに弘安3(1280)年7月2日付、阿仏房尼=千日尼にあてられた書簡(千日尼ご返事)を挙げうる。この書簡は、弘安2(1279)年3月21日に死去した佐渡在住の檀越阿仏房の遺骨を、同年7月2日、子息藤九郎守綱が奉じて身延に登詣した事実を次のように伝えている。「 ・・・阿佛上人は濁世を厭〔ひ〕て佛になり給〔ひ〕ぬ。其子藤九郎守綱は此の跡をつぎて一向法華經の行者となりて、去年は七月二日、父の舍利を頸に懸〔け〕、一千里の山海を經て甲州波木井身延山に登て法華經の道場に此をおさめ、今年は又七月一日身延山に登て慈父のはかを拜見す。子にすぎたる財なし。南無妙法蓮華經」。常忍の身延登詣から3年余を経た藤九郎守綱の場合については、このように、「納骨」の行作が明記されており、また、それの1年後のこととして「見墓」のことが書き記されている。納骨の場としての「法華經の道場」についても、見墓の対象としての「慈父のはか」についても、明確なイメ ー ジを持ちにくいが、弘安2・3年のころには、何
ほどかは定型化した身延納骨や見墓が弟子・檀越によって行われはじめていたのではなかろうか。これに反して、常忍の場合には、定型化した納骨の観念は見出しがたい。常忍によって持死ち運ばれた故母の遺骨ーー全骨であるか、分骨であるかは明かでないーーは、いずれ身延のどこかに納鎮されることになるだろうことを、常忍は予期もし、期待もしていたことだろう。しかし常忍は、納骨そのことのみを目的にして遺骨を運んだのではなく、「生者」としての遺児にとっては離別苦の克服が実現され、・「死者」としての亡母にとっては頓證菩提が成就される
だろうところの、生きた「儀式」における核心的な「装置」として亡母の舎利を持ち運んだのではなかっただろうか。しかし、d 段初節に描かれている「儀式」の内実に迫って、その経緯と内容を内面的に把捉することは私にとっては不可能に近く、私としてはそこに記されている常忍の宗教体験を一つの真実として受けとるばかりである。ただ、「儀式」の情景について幾分の解説を加えてみると、「儀式」は、身延の日蓮草庵に入ってからではなく、おそくも舎利を奉じて常忍が自家を出発したその時点において、すでに始まっている、と考えられる。そして難渋をきわめた旅行の過程は、そのまま「儀式」の重厚な進行経過を形成しているわけで、d 段初節において「儀式」は高潮した最後の場面を迎えるのである。法華経読誦の声、一乗談義の言がこだまする身延の山中は、それだけでもう三障を浄化する霊境をなしているはずだ。こうして「儀式」の舞台転換が行なわれたのである。そこに根本的に重要なワキ役として新しい人物が登場する。草庵の主人日蓮がそれだ。日蓮は常忍にとっては、教学の厳師であるばかりではなく、信仰の先達であり、そのうえ存在の証入でさえありつづけてきた。そのような日蓮に再会しえたことによって常忍は、増幅され拡大された自己を意識しえたにちがいない。こうして常忍は日蓮の持仏たる釈尊の宝前に立つのであるが、実はそれに先きだって、b段で告げられた悲痛な対話が日蓮との間に交された、と想像される。そのとき常忍は愁訴しただけではなく、嗚咽し、慟哭したことだろう。涙をぬぐった常忍は、釈尊の宝前に母の骨を安置した。そして五体投地の敬礼をいたした。日蓮はもとより、常忍も承知していたはずの天台智の撰述と伝えられる『法華三味懺儀』は二種の敬礼法を区別している。一つは「五体投地」であり、もう一つは「頭面頂礼」である。その『懺儀』は「頭面頂礼」を軽しとみているわけではないが、「五体投地」をい っそう重視していることはたしかだろう。その『懺儀』において「本師釋迦牟尼佛」の敬礼には「頭面頂礼」が用いられているのに、「ヘ主釋奪」の前に立った常忍は「五体投地」の敬礼をした、と日蓮は記しているわけだ。もとより、ここでの「五体投地」が文字通りの全身投擲であったのか、それとも両膝、両肘、頭の五輪を床上につける略式のものであったのかは知りえないが、特に懺悔法の場合について規定されている「五体投地」を常忍が行じたことは注意されてよい。さて敬礼を終えた常忍は合掌のうちに両眼を見ひらいて「尊容」を拝した、という。ところで、その「奪容」とはいったい何を指すのか。それは教主釈尊の尊像そのものでもなければ、母の骨それ自体でもなく、釈尊像と母の骨とが同一線上に配置されたその全容を指すのではあるまいか。いずれにしても常忍は、至心合掌の姿勢で「奪容」を拝しつづけているうちに、凡身ながら異常の歓喜を一身に覚えて、心の痛苦は忽然として消滅したーー、そう日蓮は常忍の信仰体験を記述する。私としては、前記の通り、そう記録された信仰体験を常忍の身上に実現した一つの歴史的事実として信受する他はない。
しかし日蓮は、さらに一歩を進めて常忍の信仰体験の内面にわけ入って、その体験に即して常忍が自覚化し、体得したと、日蓮が判断する―信仰命題を析出する。その信仰命題は二つに分かれる。第一は、「我が頭は父母の頭、我が足は父母の足、我が十指は父母の十指、我がロは父母のロなり、譬へば、種子と菓子と、身と影との如し」とする親子一体の命題である。このような命題の自覚が存立するかぎり、「死者」たる母と「生者」たる常忍との隔絶は意識の上で解決し、「生者」なる常忍に融即して「死者」なる母は存在しつづけることになる。つまりここでは、「死者」と「生者」との共存・共生以上に、「生者」に「死者」が吸収されたかたちでの両者の一体化が実現したことになる。そして、この一体化実現の意識が常忍において作動するかぎり、もはや「離別苦」に常忍が悩む理由は消滅することになる。第二は、「ヘ主釋奪の成道は淨飯・摩耶の得道なり。吉占師子・提女・目ノ奪者は同時の成佛なり」とする親子同時成仏の命題である。、もうまでもなく、浄飯王・摩耶夫入は、伝上、釈尊の父母で、吉占師子・青提女は目ノ〔=目連〕尊者の両親である。このうち、釈尊とその父母との同時成仏は、・定本363『上野殿御返事』などに詳記され、目連とその父母とのそれは、定本220『四條金吾釋迦佛供養事』に、同374『盂蘭盆御書』などに縷説されている。しかし、教学練達の常忍にたいしては改めて詳述の必要のない親子同時成仏義を、右の大法悦境において常忍は再自覚化、再体得したはずだ、と日蓮は指摘するのである。つまり、第一命題の自覚化を通じて「離別苦」を克服しえたはずの常忍は、第二命題の再体を介して、常忍自身と亡母との同時成仏の可能性についての信仰と展望とを獲得したはずだ、と日蓮は洞察しているのである。
ところで注意を要するのは、第一命題と第二命題とのかかわり方である。最近、一注者はまさに『忘持經事』のこの個所について、日蓮は「親子の肉体的同一の原理」に基づいて、「親子同時の成仏」を説いたのである、と注し、「これは他にあまり類例のない日蓮独自の成仏論の形態である」と論じ、さらに「これはまた"心”に対して"色”を、”理”に対して”事”を強調する本覚思想の実践的な帰結でもあった」と説明した。しかし日蓮自身の文章には、このような解釈を可能とするような措辞は発見できない。第1命題と第2命題とはたんに機械的に並記されているのではなく、常忍における悩苦の二面にそれぞれ対応する救済の2つの定言として展示されているけれども、両者の間に因果関係が日蓮自身によって想定されていることを示唆するような言辞は存在しない。これはむしろ当然のことであって、『上野殿御返事』以下の前記諸書が明示しているように、日蓮は成仏論上、あくまで爾前得道の不可能性、法華経成仏の排他的可能性の立場を貫ぬき通しているのであって、親子同時成仏義もこの立場を厳守したうえでの一法門に他ならない。ただし、治部房母あての前記『盂蘭盆御書』には、『昭和定本』によると、「目連の色身は父母の遺體なり。目連の色身佛になりしかば、父母の身も又佛になりぬ」と記されてて、父母の遺体としての目連の色身の成仏を原因として、父母の色身の成仏が結果した、と日蓮が説いているようにみえ、先きの注者の見解に一証を供しているようにみえる。しかし、右の箇所に『昭和定本』が「目連の色身」と掲出しているのは、京都妙覚寺蔵の真蹟本に徴するに、明かに「目連の色心」の誤植である『日蓮聖人御眞跡』)。そのうえ、「目連の色心佛になりしかば父母の身も又佛になりぬ」における「なりしかば」は、父母成仏の原因を意味するのではなく、たかだかその条件を指しているのに過ぎない、と解すべきである。いずれにしても、『盂蘭盆御書』の場合と同様、『忘持經事』の場合についても、日蓮の成仏論を注者のように「"心"に対して"色"を、"理"に対して"事"を強調する本覚思想の実践的帰結でもあった」と論定するのは、妄断ではあるまいか。稀有の宗教体験に即して常忍が自覚化したと判断される二つの信仰命題を展示した日蓮は、次に、その自覚化の結果として常忍の身上に実現したと考えられる利益についての洞察を開陳する。その利益とは「無始の業障」の消滅と「心性の妙蓮」の開花との二に他ならない。ところでこの信仰利益が「是の如く觀ずる時」ーーすなわち、常忍が観察・思念の方法によってその信仰命題を確認したその瞬間ーー頓成した、と説かれているところに、すでに天台教学の観念主義が認められるように思う。また利益の内容として「無始の業障」の消滅とともに、「心性の妙蓮」の開花が挙げられているのも、中古天台の思惟方法を想起させる。「心性の妙蓮」とは、語義の上では己心仏性の妙法蓮華を意味し、釈義としては、中古天台を特色づける心性本覚の思想の表現とみられる。ところでこの条に天台教学や中古天台の思想を思わせるような措辞が行なわれているのは、日蓮その人の教学思想の一面がそこに端的に示されたもの、というよりは、むしろ、天台教学に慣れた常忍の思惟方法と語彙に仮借して、常忍の身上に成就した功徳を日蓮が讃美したもの、とみるべきではあるまいか。
以上のように、常忍を主役とした「儀式」の経過と結末、その意義と成果を記述してきた日蓮は、「儀式」後の常忍の行実につき、「然して後に隨分佛事を爲し、事故なく還り給ふ云云」と要説して、全を終えている。「隨分」とは注者のいうような「たいそう」の意ではなく、「分際にしたがって」の意であろうが、「佛事」の中には、埋骨、供養、回向などが含まれていたことだろう。その仏事の完了だけではなく、「事故なく還り給ふ」として、常忍の無事帰宅のことまで日蓮が書きつけたのは、常忍にその身延行の一部始終を想起させてゆく中で、そこで彼が体得した貴重な信仰体験の意味を再確認させ、母子一体化の歓喜と母子同時成仏への展望とを常忍の意識の中に定着させたい、と日蓮が念願したからに他ならないだろう。母との死別によっても、もはや動揺しない強固な存在へと自己を上昇させたはずの常忍といえども、その後においても繰り返し、くりかえし彼を襲うであろう死別の痛苦に耐えかねるだろうことを、日蓮は先刻見通していた、と考えられるのである。
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前節で考察した『忘持經事』を常忍に書き与えてから2年を経た、建治4(1278)年2月28日、日蓮はまたもや常忍に書簡を送り、亡母の三回忌にあたって常忍が日蓮に供養した銭七貫につき謝意を表すると同時に、その供養に縁じて、仏種論の視点に立っての即身成仏の法門を展開した。この書簡は中山法華経寺蔵の親筆本の標題にしたがって古来『始聞佛乘義』と称され、また常忍自身の作製した『常修院本尊聖ヘ事』(略称『常師目録』)では、『就類種・相對種法門事』として掲出されているが、内容に即していうなら、『即身成佛義』と名づけうるだろう。今、山川智応博士虔修『日蓮聖入御眞跡』に附されている山中喜八居士照校『日蓮聖人標準御書』ならびに『照和定本』277に参看して訓読すると、この書簡は
せ鳧七結下州より甲州に送らる。その御志悲母の第三年に相當る御孝養なり
と書きはじめられ、最後は
病身たるの故に委細ならず。又々申すべし、
と記されたうえ、
建治四年ニ月二十八日 日蓮花押
富木殿
と書き上げられている。日付がこのように詳記されているのは、末尾に「病身たるの故に委細ならず」と注意されていることと併せて、この書簡の重要性が日蓮自身によって自覚されていたことの証とされよう。事実、右の導入部につづく本文を少しく丹念に検討してみると、わずか9紙に、大略8番の問答体で記述されているに過ぎない書簡でありながら、そこに盛られた法義の重さには、構想の大いさとともに、まことに読む者を圧倒し去るものがある。
「死者」常忍の母をめぐる、「生者」常忍と日蓮とのかかわりの中で、この書簡の意義を正しく評価しうるためには、日蓮自身の立場に即した本書の重要性というものを、構想の点でも法義の点でも明かにする必要があるだろう。至難のわざながら、事の性質上、あえて下に小考察 を試みることにする。問答を八番に分けたのは、私案に過ぎない。より適切な分節もありうる だろう。
〔問答第1}
問ふ。「止観明静前代未聞」の心いかん。答ふ。圓頓の止観なり。
『始聞佛乗義』は、このように、右の「問答第一」を掲げて本文に入る。設問劈頭の「止観明静前代未聞」の一句は、隋の開皇14(594)年4月26日、荊州玉泉寺において天台智(538-597)が開講した講述を、門弟の章安灌頂が筆受し、それに数次の修治を施して成った『摩訶止觀』の全篇に被らせた、灌頂作のいわゆる「通序」の初八字に他ならない。このことは、『始聞佛乗義』本文の起筆が、あたかも日蓮の主著の一つ、定本118『親心本尊抄』の初頭に、『摩訶止觀』第五における一念三千義の要文を掲出したのと同巧の手法で行われていることを物語る。しかし、『親心本尊抄』の場合には、智教学の最核心と信ぜられてきた一念三千義の要文を劈頭にかかげて、智における理の一念三千義を事のそれへと超出してゆく用意を示しているのにたいして、『始聞佛乗義』 の場合には、『摩訶止觀』の全体に加えられた「通序」の初八字を拉しきたってそれを本文の初に置き、潅頂が「前代未聞」と讃歎した「止観明静」の全容を大きく問題にするのだ、という姿勢を明示している、という違いがある。ところで、この八字については、日本 天台の教学伝統の上では、三種顆の訓点が行われてき、それが日蓮宗宗学上にも襲用されていること、いわゆる『健砂』所収の『始聞彿乗義私見聞』の示す通りである。日蓮 自身は、この八字を無点のままで『始聞佛乗義』本文の劈頭に据えて、その八字の「心」、す なわち、いわば神髄としての「意味」を問う態度に出たのだ、といえよう。だから分析を避けるぺきであるかも知れないが、念のため断っておくと、日蓮は、この個所における「止観」の 言葉を、もとより書名としてではなく、また、それに盛られた一念三千、諸法実相などの教説 の名としてでもなく、まさしく四種三昧、あるいは十境・十乗の観法の実践行法の名としてと らえている。だから、八字の設問にたいして、ただちに「園頓の止観なり」という答が返ってくるのであるが、問答第二にいたって、まさに溌刺たる実践行法概念として「止観」の言葉が 理解されていることが、いよいよ明かになる。
次に、第一問への答「園頓の止観なり」の一句は、やはり『摩訶止觀』のいわゆる「別序」に灌頂が「天台は南岳より三種の止観を傳ふ。一には漸次、二には不定、三には圓頓なり。皆これ大乗にして、倶に賓相を縁じ、同じく止観と名づくるなり」と記しているのに基づいたものとみられる。すなわち日蓮は、灌頂にしたがって、智が天台宗第二祖南岳慧思より漸次・不定・円頓の三種の止観を伝受したことを認めつつ、「止観明静前代未聞」と讃歎された場合の止観の神髄が、第三の円頓止観に他ならないことを断定するのである。それでは日蓮は、ここに挙げられた円頃止観というもの自体をどう理解すべきだ、と考えているのか。これが問答第二の内容を形作る。
〔問答第2〕
問ふ。圓頓の止観の意いかん。答ふ。「法華三昧の異名」なり。
問答第二における答言も、第一の場合と同様に、直裁であり、卒爾に詮要を射あてようとしている。しかし、答を特徴づけているこれらの姿勢そのものよりも、いっそう重視せらるぺきものは、いうまでもなく、提示された詮要の内容である。いったい「圓頓の止観の意いかん」の設問にたいして、日蓮は、やはり灌頂作の「別序」における円頓止観というものについての概念規定――すなわち、古来「圓頓章」の名をもって称せられてきた、摩討止観の「心髄要領」――を掲出することによって、答言に擬することができたはずである。その「圓頓章」において潅頂の記すところは次の通りである。
圓頓とは、初めより賓相を縁ず。境に造るにすなわち中にして、眞賓ならざることなし。縁を法界に繋け、念を法界に一うす。一色一香も中道にあらざることなし。己界および彿界衆生界もまた然り。陰入みな如なれば、苦の捨つぺきなし。無明塵勢すなわちこれ菩提なれば、集の断ずぺきなし。遽邪みな中正なれば、道の修すべきなし。生死すなわち涅槃なれば滅の鈔すべきなし。苦なく集なきが故に世間なく、道なく滅なきが故に出世間なし。純一に賓相にして、賓相の外に更に別の法なし法性寂然たるを止と名づけ、寂にして常を観と名づく。初後をいうといえども、二なく別なし。。これを圓頓止観と名づく。
このように「園頃章」は、間然するところのない圓頓観を形作っているにもかかわらず、あえて日蓮は、智顛直門の灌頂の概念規定を採用することなく、かえって唐代の第九祖妙薬湛然(711−782)の小箸『止観大意』の左の一節に基づき、「圓頓の止観の意いかん」の問にたいして、「法華三昧の異名なり」と答えるべきものとした。
諸経を滑渾するに、みな五重玄をもって十義を解し、観法に融通するに、すなわち五科の方便、十乗の軌行を用う・・・五〔科〕の方便および十乗の執行と言ふは、すなわち圓頓の止観にして全く法華に依る。圓頓の止観とは、すなわち法華三昧の異名なるのみ
ところで「圓頓の止觀の意いかん」の設問にたいする答案を用意するにあたって、日蓮はなぜ灌頂の「圓頓章」を避けて、湛然の『止觀大意』の一節を選びとったのだろうか。この問題は、本来は、日蓮教学の主体的方法の根基に触れる重大問題の一端をなすものであり、また、日蓮教学の主体的方法そのものをも対象化しようとする世界史認識の客観的方法の基本にかかわる重要問題の一脈を形作るものでもある。しかしここでは、主として、日蓮における論著作成の技術的方法にかかわる手法問題の地平で観察すると、日蓮は第一答として提示された「圓頓の止觀」が一つの理観として摂受される危険を洞察して、最初にその危険を断乎として排除しておかねばならない、と考えたのだ、とみられる。いったい、灌頂の「圓項章」を吟味すると、そこに整序の限りをつくして提示されている法義は、中道一実の視点において諸法を実相としてとらえた理論的認識に他ならないではないか。だから、「止」といい「観」と称するものについても、「法性寂然たるを止と名づけ、寂にして常に照らすを觀と名づく」と規定されていて、能観の主体的機能としてではなく、所観の客観的真理として止観というものが言い現わされている。もとより理論的認識としてのこのような諸法実相観も、それが法華経本門の立場において開顕される限り、異議をさしはさむ理由は、日蓮にもないはずである。しかし、「圓頓の止觀」が迹門ずりに受けとられる危険が予想される限り、『摩訶止觀』における智本来の立場に帰って、「圓頓の止觀」を実践行法の能動的行作の問題として定立させねばならと日蓮は思考したにちがいない。この思考に立って、解答を尋求し、表現を厳選していた日蓮は、まず灌頂の「圓項章」を忌避することによって理観へ流れ去ることに歯止めを行い、湛然の「法華三味の異名なるのみ」を採択することによ「て、「圓頓の止觀」のまさしく実践行法性にアクセントを付することができたのだ、と考えられる。
〔問答第3〕
問ふ。法華三味の心いかん。答ふ。それ末代の凡夫法華經を修行する意にニあり。一には就類種の開會、二には相對種の開會なり。
問答第2において「圓項の止觀の意」を「法華三味の異名」として受けとめることによって、理観への転落を食いとめ、実践行法の精華としてそれを定立させた日蓮は、今や、別の危険に直面することになった。それは、第2答として掲げられた「法華三味」なるものが、『摩訶止觀』巻第2に詳説せられている「四種三味」のうち、法華経に約してその方法と勧修とが説かれている「半行半坐三味」そのものと同一視せられる、という危険である。「圓頓の止觀」なるものの実践行法性を強調することによって、理観に随伴しがちの観念主義への傾斜を遮断した日蓮は、今度は、実践行法性にまつわる形式主義にたいして絶縁を宜言せざるをえない羽目に立ちいたったのである。もとより日蓮は、『摩訶止觀』に説かれている「半行半坐三味」(=「法華三味」)そのものを形式主義の名において非難しようとするものではない。しかし日蓮は、まさしく「法華經修行」の実践行法性においてとらえた「法華三味」について、それの歴史的主体をきびしく且っ具体的に問題にし、それを「末代の凡夫」として鮮烈に意識化することによって、「半行半坐三味」をまさに往時には適わしいが、現時には有害な修行方法として排除するのである。こうして、「それ末像の凡夫法華經を修行する意に・・・」という歴史的に設定された問題構造が立ち現われてくる。そして、その問題構造のもとに法華経修行の「意」が問われるや、日蓮は、端的に2種の仏種の開会を挙げて解答とする。2種の仏種たる就類種・相対種そのものについては、問答第4以下に日蓮自身が釈義を施しているが、問答第3において特に注意せられるのは、両種の仏種の「開會」こそが法華経修行の神髄に他ならぬ、と断案せられている点である。この断案はまたもや仮設の問者を動転させたにちがいない。なぜなら、「法華三味の心いかん」という設問を、「末代の凡夫」にとっての「法華經修行」の問題として捉えなおすことによって、問者を「修行」へと決意させたであろう答者が、こんどは「法華經修行」の具体的内容を指示する段階に立ちいたったとき、問者の「修行」への決意やそれに基づく実践のごとき、凡夫のいわば「修コ」などをもってしては、達することはもとより、うかがい知ることさえ不可能なはずの「開會」を超然と指摘するにいたったからである。「開會」の概念を開顕会通の略と解し、仏種の「開會」を仏種への開顕会通としてとらえた場合、「開會」の能主――、すなわちそれへの権能を備えた能動的主体――たりうるものは、たとえば常忍の問題意識に即していえば、いったい誰れなのか。そのような能主は、法に約していうなら法華経=題目であり、入に約していうなら、久遠実成の教主釈尊の遺嘱に立っ末法の大導師日蓮以外の何ものでもありえないはずだ。そうだとすれば、「末代の凡夫法華經を修行する意」と注意を促されて、修行者たろうと決断したであろう問者は、法華経修行の具体的内容を2種の仏種の「開會」と断案された瞬間、呆然自失せざるをえなかったにちがいない。こうして日蓮は、問答第3までの経過において、「問者」の意表をつくことすでに3度に及んでおり、かくて「問者」を三度動転させ、その立脚点を三度転倒させている。そうすることによって日蓮は、「即身成仏義」展開への準備をようやく果しえた、と考えただろうが、仮設された問者は不安定きわまる境地へ投入されたことになるだろう。しかし日蓮は、そうした事態に介意しないかのような姿勢で、「仏種論」~と踏みこんでゆくのである。
〔問答第4〕
問ふ。此の名は何より出るや。答ふ。『法華經』の第三藥草喩品に云ふ「種・相・體・性」の四字なり。共の四字の中に第一の「種」の一字に二あり。一には就類種。ニには相對種なり。共の就類種とは『釋』に云く、「凡そ心有る者は、これ正因の種なり。隨て一句を聞くは、これ了因の種なり。低頭擧手は、これ縁因の種なり」等云云。共の相對種とは、煩惱と業と苦との三道、共の當體を押へて、法身と般若と解脱と稱する、是れ也。
この問答第四をもって日蓮は『始聞佛乘義』の本論に入り、数次の問答のなかで仏種論を展開し、最後に即身成仏の問題につき問者を説得しようとする。すなわち、上掲問答第四は仏種論の総説を形成する。それに続く無問自説第五は仏種論の各説の第一として、特に就類種の開会について説き、問答第六ーーそれは、更に三節に分かれるーーは、各説の第二として、特に相対種の開会について詳論し、それに基づいて即身成仏の観念を会得させようとする。問答第七は仏種論 = 即身成仏義の深意に通達する方途の問題を提起し、深意の不可知性を指摘し、それを否定的媒介として深義の信受を勧説する。最後に問答第八は仏種論=即身成仏義聴聞の功徳について論じ、「末代の凡夫」にたいして即身成仏の事的実現について保障を与える。
以上のような構成の総説部としての問答第四は、仏種論上の「種」という名辞の出典を明かにすることに始まる。すなわち、「此の名は何より出るや」という設問にたいして、答者は羅什訳『妙法蓮華經』第三、藥草喩品第五に出る「種・相・體・性」の四字を挙げる。ここにみえる衆生の「種」が、たとえばカテゴリーやジャンルの意味においてではなく、まさに仏種の意味に解せられているのは、智の『法華文句』巻第七上に「第二に如來能知とは・・・一に四法に約して知るなり。 ・・・四法に約すとは、胃く、種と相と體と性となり。種とは三道是れ三コ種なり。『淨名』に云く、〈一切煩惱の儔は、如来の種たり〉と・・・。」と論定されているのに基づくのであって、日蓮限りの独断ではない。このように「種」の典拠を明かにした日蓮は、その「種の一字に二あり」として、いわゆる就類種と相対種の名を挙げる。そしてただちに、二元論的仏種論というべき論釈に入る。
第一は就類種についてであり、ここで日蓮は、類に就いての種、すなわち成仏への「類同的」あるいは「類縁的」な事物にかかわって仏種を論じ、それへの開会の概念を提示しようとする。しかし日蓮は、たとえばこのような語釈を試みることなく、また、湛然が『法華文句記』巻第七下に「若し就類とは、類は類例を謂ふ、すなわち修徳なり」と注したような付釈を用いることもなく、すぐさま「釋に云く」として「凡そ心有る者はこれ正因の種なり。隨て一句を聞くはこれ了因の種なり。低頭擧手はこれ壕の種なり等」の一文を挙げ、三因仏性論の問題構造によって就類の種というものへの開会の概念を論定しようとするのである。ところで、「釋に云く」として日蓮が掲げた右の一文にそのまま対応する章句は、智の『釋』中には実は発見されえない。いったい智の『釋』とは『法華玄義』と『法華文句』のいずれをも指す言葉であるが、そのうち『玄義』巻第九下には、「若し性コを初因と爲すを取らば、彈指散華これ縁因の種なり。隨て一句を聞くはこれ了因の種なり。凡そ心有る者はこれ正因の種なり。これすなわち遠く性コの三因種子を論ずるなり」と記されている。他方、『文句』巻第七上には、「類に就て種を論ぜば、一切の低頭擧手は悉くこれ解脱の種なり。一切の世智・三乘の解心は、印ち般若の種なり。夫れ心有る者は、皆當に作佛すべしは、即ち法身の種なり」と釈されている。この両釈を、問答第四における『釋』と比読すると、『玄義』における「彈指散華」の一句を削り取って、『文句』における「低頭擧手」の一句で補ったものが、「釋に云く」として日蓮が掲げた一文に他ならないことに気づく。日蓮がこのような釈文の造成を行なったのは、「彈指散華」の用語が、善業一般を表示する言葉としては特殊に過ぎる、と考えたからででもあろうか。しかし、この条にかかわって根本的に重要なのは、就類種論の意味内容そのものであることは、いうまでもない。いったい日蓮は、仏と衆生との両者にとって最高意義を形作るところの、また、至聖・至善・至福の成就を意味するところの成仏というものの実現には、その実現を可能にし、それを約束し、保障する理由律が衆生の側に存在しなければならない、という思惟方法を先人たちから継受していた、といえよう。そして日蓮は、これもいわば大乗一般の考え方にしたがって、そのような理由律を実体的なものと見たてて、それを存在論的にとらえた場合に「仏種」と呼び、その理由律を性質的なものと見たてて、それを機能論的に解した場合に「仏性」と称した、とみられよう。このような「仏性」について日蓮が、正因・了因・縁因の三種を区別したのは、前引の『玄義』巻第九下の他、それの巻第五下の「類通三佛性」の釈義における智の認識方法に基づく。もとより、三因それぞれの意味は、日蓮にと「ても、単純ではない。しかし日蓮は、少なくともこの条では、衆生の心性に遍在する本有の理由律を正因と名づけ、正因の実在についての主体的知覚=自覚を、正因を結了する理由律と見て了因と呼び、諸善業の実修を成仏への助縁をなす理由律と見て縁因と称している、といえるだろう。要するに、日蓮が「釋に云く」として掲げた就類種論は、およそ衆生の側にありと想定された三因仏性を、成仏という最高善に類同的で類縁的な理由律としてとらえ、それに基づいて成仏の可能性を措定しようとする成仏方法論とみられる。しかし、このような就類種論は、たしかに仏種への開会の思想というものの輪廓を示す概念規定ではあるが、開会の事行がそこで告知され、あるいは約束されているわけではない。したが って、このような就類種論は成仏方法論としても説得性を欠いているものといわざるをえない。つまり、本有の心性といい、それの自覚といい、諸善業といそれらが成仏にとっての蓋然的素因としてではなく、まさしく成仏にとっての必然的理由律として機動するにちがいないことの保障が、この就類種論には欠如しているのである。いわんやこの就類種論では、個々の衆生にたいして事上に成仏を約束する現実の保障は何も与えられてはいないのである。日蓮は、この二段の疑点を残したままで、第二の相対種論へと進んでゆく。
第二の相対種についても日蓮は語釈を加えることなく、ただちに仏種論の問題として概念規定を行ない、「其の相對種とは、煩惱と業と苦との三道、共の當體を押へて、法身と般若と解脱と稱する、是れ也」と断案する。この概念規定から逆にうかがえるように、日蓮は「相對」の語を、成仏を遮る「対立物」、成仏への「矛盾」の意に取り、それら一連の矛盾が、実はそのままで一連の仏種として妥当する、と主張する。これが一面の開会思想の提示を意味することはもとよりである。いったい以上の一文は、日蓮の創作と考えられるが、それの素材としては、前にもその一部分を引いた智の『文句』第七上における次の一節が用いられている、とみられよう。「第二に如來能知とは・・・一に四法に約して知るなり。・・・四法に約すとは、謂く、種と相と體と性となり。種とは三道是れ三徳種なり(三道是三コ種)。『淨名』〔=『維摩詰所説經』〕に云く〈一切煩惱の儔は如來の種たり〉と。これ煩惱道に由て即ち般若有ることを明すなり。又云く〈五無間皆解脱の相を生ず〉と。これ不善に由て印ち善法解脱有るなり。一切衆生は印ち湟槃の相にして復減すべからずとは、これ生死に印して法身を爲すなり。これ相對に就て種を論ずるなり」。以上の『文句』の文は、これも前に引いた「類に就て種を論ぜば・・・」へと続く。これでみると、智はまず、「相對に就て種を論」(「就相對論種」)じ、次に、「類に就て種を論」(「就類論種」)じたのであり、「就」は、「類」の場合と同様に「相對」の場合にも、「かかわって」を意味する副詞的な語として用いられていることがわかる。いずれの場合にも、「就」とは仏種を論じるにあたってのそれぞれの視点を示す語に他ならない。しかし日蓮は、少なくともこの条では、「相對種」を、右の「三道是三コ種」の句に基づき、「就類種」という一つの仏種と区別せらるべき別のカテゴーの仏種と想定した。このようにして日蓮は、独自のしかたにおいてではあるが、「三道印三コ」のいわば伝統的なテ ーゼをここに提示し、それを確認した。もとより日蓮は、ここに掲げられた三道すなわち煩悩・業・苦と、三徳すなわち法身・般若・解脱とが、この通りの序列でそれぞれ対応する、と考えていたのではない。そのことは、日蓮が問答第六の一に『止觀』巻第一上にみえる「生死〔=苦果依身〕印法身・煩惱印般若・結業印解脱」をそのまま引いていることからみても、また問答第六の二における生死・煩惱・結業への釈義からみても、明らかである。
ところで以上のような文献学的な問題の他、あらためて考えねばならないのは「この問答第四後半のかたちで提示せられた限りでの相対種論のいわば権威と妥当性についてである。この相対種論は、対立物相互の間に相即関係を洞見しようとする事物認識の方法に立って、凡夫と聖者との間の障壁を突きくずし、それによって凡夫の聖者化を保障しようとする成仏の方法理論であり、そこに開会の思想輪廓が示されていることはたしかである。しかし、このような成仏方法論としての相対種論も、前の就類種論の場合と同様、少なくとも二段の難点をもつ。第一は、このような相対種論も、成仏の可能性を説く一般理論ではありうるとしても、その必然性を断案しうる開会事実の裏づけが欠如しているという難点である。そのうえ、矛盾律の否定を意味する相即論の構造を、ここでの相対種論の先駆としての智の『玄義』巻第五下における「三法妙論」ーーとりわけ、そこでの「三法始終義」ならびに「類通三法義」ーーのうちに探ってみると、相即思想なるもののむしろ多義なることに不安定と当惑を覚えさせられる。第二は、この相対種論の場合にも、個々の具体的な凡夫にたいして事上に成仏を約朿する現実の保が欠けている、という難点である。日蓮は、もとより以上二段の難点の存在を意識しており、問答第五以下においてその難点の超克を企てるべき立場に立った、とみられる。
〔無問自説第五〕
共の中に就類種の一法は、宗は法華經に有りと雖も、少分は又爾前の經經に通ず。妙樂云く「別ヘは唯就類の種のみ有て、而も相對無し」と云云。此の釋に別ヘと云は、本の別ヘには非ず、爾前の圓或は他師の圓也。又法華經の迹門の中、「供養舍利」已下の二十餘行の法門は大體就類種の開會也
問答第四において仏種論につき総説した日蓮は、次に就類種・相対種のそれぞれについて各説する段階に達し、本来ならばここに問答第五として、就類種にかかわる前出の二つの難点の克服をはかるべきであっただろう。しかし日蓮は、たとえば「問ふ。就類種の心いかん」というような正面切った設問にはじまる問答体形式を用いることなく、無問自説のかたちでわずかに就類種の概念に付注するに止まつているようにみえる。それだけではない。正・了・縁の三因をしてまさしく衆生成仏の仏種として機動させるもの、すなわち諸善業のごときものを就類種へとまさに開会するものは、根元的には法華経本門のみであるとする、絶待妙の立場を日蓮がここに強調していないのも、異例のようにみえる。行文に即して検討すると、就類種の法義は、その主要部分は法華経に収められているけれども、少しばかり爾前ーーすなわち法華経以前ーーの経々にもわたっている、という弾力的ではあるが、しかし不透明な冒頭の定言が、読む者にむしろ当惑の感をいだかせる。この定言の妥当性の文証として、日蓮は湛然の『文句記』巻第七下にみえる「別ヘは唯就類の種のみ有て、相對無し」の釈を挙げる。この湛然の釈は、いわゆ「別ヘ」が相対種論を欠いた劣位の教説であることを指摘したものと考えられるが、日蓮は「別ヘ」なるものが、法華経同様、就類種論を内包した一種の勝位の教説であることを容認したものとして、この釈を引用している。もとより日蓮は、ここにいう別教なるものが、蔵・通・別・円の四教の一としての本来の別教を指すのではなく、「爾前の圓・他師の圓」を意味することを特にことわっている。「爾前の圓」とは、日蓮の用語例ーーたとえば、定本第三輯四および二七『三種ヘ相』などにおけるーーにしたがえば、法華経以前の経々と日蓮が想定した華厳・方等・般若諸経の円経の意であり、「他師の圓」とは、天台大師すなわち智以外の諸師の円教のことである。こうして日蓮は、少なくともここでは、就類種論を法華経と爾前の円教等に共通する仏種論として措定し、ム種論における法華経の最高権能性を自ら棚上げしているようにみえる。そして、就類種への、法華経による開会を説く一段に立ちいたっても、日蓮はわずかに法華経迹門中の、方便品第二における「供養舍利」以下の二十行の偈をかかげるに止まっていて、同経本門による根本的開会のことを説こうとしないのである。しかし以上の諸事実は、日蓮の就類種論なるものが総じてこのような不徹底な性格のものであることを意味するものではなく、常忍に与えられた『始聞彿乘義』中の就類種論がたまたまこのように言い現わされている、というに過ぎない。これに反して、問答第六以下における相対種論は、重厚且っ緻密に展開されており、そのうえ論旨もきわだ。て鋭い。この点に注意して間答第六以下を読んでゆくと、日蓮は常忍にたいして仏種論一般をではなく、まさしく相対種論をこそ書き送ろうとしたのだ、という理解が生まれてくるだろう。
〔問答第六の一〕
問ふ。共の相對種の心いかん。答ふ。『止觀』に云ふ、「いかなるか、圓の法を聞く(云何聞圓法)。生死即法身・煩惱即般若・結業即解脱なりと聞く。三の、名有りと雖も而も三の體無し。是れ一體なりと雖も而も三の名を立つ。是の三印一相にして共れ實に異有ること無し。法身究竟なれば般若・解脱も亦究竟なり。般若C淨なれば餘も亦清淨なり。解脱自在なれば餘も亦自在なり。一切の法を聞くこと亦是の如し。皆佛法を具して減少する所無し。是れを圓〔の法〕を聞くと名く(名聞圓〔法〕)」等 云々 。此の釋は印ち相對種の手本也。
問答第四においてすでに日蓮は、相対種についていちおうの概念規定を行った。しかし、問答第六以下において、仏種論各節の第二として特に相対種論の掘り下げを行おうとするにあたって日蓮は、その理念をいっそう明確化させるために、この問答第六の一を設け、そこに『止觀』巻第一上の一節を引用し、その「釋」なるものを相対種理念のいわば典型として提示した。ところで、日蓮遺文のいくつかの刊本では、初めの一句は「いかなるか、聞圓の法なる」とよまれ、最後のそれは「聞圓と名く」というようによまれている。それにもかかわらず、日蓮自筆本における初めの「聞圓法」を、ここに「圓の法を聞く」とよみ、後の「聞圓」もー底本たる『止觀』巻第一上の原文にしたが。て、「法」の一字を補ったうえー同様によみ下したのは、文脈上、そのようなよみ方を底本原文が要求している、と考えられるからである。いったい右の原文なるものは、灌頂作の「別序」の中で、諸経によって「圓頓の止觀」の意義を解明しようとした一段中に含まれている。すなわちそこでは、いわゆる旧訳『華嚴經』の賢首菩薩品第八における賢首の菩薩偈を自由に要約したものとして、「此の菩薩は圓の法を聞き(聞圓法)、圓の信を起し(起圓信)、圓の行を立て(立圓行)、圓の位に住し(住圓位)、圓の功徳をッて而も自ら莊嚴し(以圓功コ而自莊嚴)、圓のカ用を以て衆生を建立す(以圓カ用建立衆生)」と記されたうえ、その次下に前引の「云何聞圓法・・・」が続き、さらにその次下に「云何圓信・・・」等が続く、という構成が示されている。『止觀』における原文の構成はこのようなものであり、したが ってそこに記されている「聞圓法」はまさに「圓の法を聞く」とよまれるべきである以上、問答第六の一所引のものも同様によまれなければなるまい。ところで、「聞圓法」のよみ方についてこのような検討を試みたのは、実は訓詁学的興味以上の問題がそこに横たわっている、とみられるからである。日蓮は、『止觀』別序の一節を引くことによって、相対種の理念をいっそう明かにしようと試みたが、問答第四の場合以上に開拓せられたのは、必ずしも三道即三徳の問題側面においてではなく、むしろ三徳融即の関係の面についてであった。すなわち「三の名有りと雖も而も三の體無し」以下がそれである。もとより、一切法即仏法の理念が明示されたことは、三道即三徳観に有力な背景を提供したものと考えられ、相対種論の開拓にも寄与するものといえるだろう。しかしこのことは、理観としての相対種論への若干の貢献を意味するものであるに過ぎず、事観としてのそれ、相対種論のいわば実際化に役立つものではありえなかっただろう。しかしながら、『止觀』別序における相対種論を導入している「聞圓法」の一句のみは、すでに『止觀』別序そのものにおいて、たんなる理観より実益ある事観への跳躍を可能にさせる実践行為の一つとして掲げられていた、といえよう。すなわち「聞圓の法」というがごとき物象的なものにかかわってではなく、「圓の法を聞く」という行為の重要さにかかわって相対種論が提示されているのが、『止觀』別序における文章構成であろう。日蓮は、『止斟』別序においてすでに重視せられていた「圓の法を聞く」という行為に、衆生成仏の実現にとって根本的に緊要な役割を賦与した。そのことは問答第八にいたって明瞭になるだろう。いずれにしても、このような問題が伏在しているので、問答第六の一に引かれた「聞圓法」は「圓の法を聞く」と訓まれなければならない、と私考するのである
〔問答第六の二〕
〔問ふ。〕其の意いかん。答ふ。生死とは我等が苦果の依身也。いはゆる五陰・十二入・十八界なり。煩悩とは見思・塵沙・無明の三惑也。結業とは五逆・十惡・四重等也。法身とは法身如來、般若とは報身如來、解脱とは應身如來なり。我等衆生、無始曠劫よりこのかた此の三道を具足し、今法華経に値ひて三道即三コとなる也。
問答第六の一において日蓮は、『止觀』別序の一節を援用することによって、三道即三徳の理観を典型的なかたちで提示しただけではなく、相対種論が事上に実現してゆくための契因たりうる「圓の法を聞く」の一句をも掲出して、後段の問答に備えた。それにもかかわらず、そこに提示せられた限りでの相対種論は、結局、矛盾律そのものの自己否定の論理に立った一つの理観に過ぎなかっただろう。それだけではなく、問答第六の一にいたっても、相即すると主張せられる三道および三徳のそれぞれの意味内容についての説明さえなお与えられないでいた。問答第六の二に入って、日蓮はようやく、語釈を試みると同時に、語釈のうちに示された意味内容における三道と三徳とが事実の上で相即し、それによって相対種論の事観化が実現するにいたる根本契因を断乎として提示する。まず語釈について考察すると、そこになされているものは、たんなる字句解釈ではなく、実は、総じて人間というものの存在のしかたとそれの深刻な問題性との概念の提示であることに気づく。それらの概念はもとより日蓮の創造物ではない。それらは、インド・中央アジア・中国にわたる思想および宗教としての仏教の世界史的展開を通じて、ただ変化してきただけではなく、練成され、成熟させられてきた仏教的思惟方法の結晶物のようなものであり、日蓮は特に天台智におけるその結晶を忠実に継承したのだ、というべきだろう。したがって問答第六の二に提示された諸概念をその源流について明かにしようとするなら、智の諸論著、とりわけ『法華玄義』・『四ヘ義』の検討を必要とする。しかし、ここでは略にしたがって、日蓮の提示した諸概念に僅少の付注を施すにとどめる。
頭初に見える「生死」とは、対比における生存と死滅そのものを意味するのではなく、苦の具体的・現実的様相としての生・老・病・死の継起が無限に繰りかえされて止まるところがなそのような不可避のかたちにおける人間存在それ自体を指す。日蓮がそのような「生死」に与えた「我等が苦果の依身也」という語釈は、苦因としての煩悩と結業との必至の帰結としての深重の苦の、主体的担い手として人間存在が自覚せられるべきである、という命題を意味するだろう。そのような人間存在が、六根所依の肉体を意味する「依身」の語で表現されている点に注意を払っておきたい。その語釈に加えられた「いはゆる五陰・十二入・十八界也」の注記は、右にいう人間存在が、色・心二法の変異というべき五陰(色・受・想・行・識)・十ニ入(六根と六境との対応と交渉)・十八界(六根・六識・六境)が現実に機動するその当体に他ならないことを注意したものといえよう。次に掲げられた「煩惱」は苦果を造出する素因を意味する。それが「見思(見惑と思惑)・塵沙・無明の三惑也」と語釈せられているのは、煩悩なるものをすべて真理認識における惑(まどい)としてとらえつつ、惑の深さのちがいによってそれぞれの招く「生死」の場と質に二種の相違を区別する智の見解を、日蓮が踏襲しているが故である。第三に挙げられた「結業」は結(=煩悩)によって引き起される惑業を意味し、それ自体苦果の一つをも形成する。それの語釈として、五逆(殺父・殺母・殺阿羅漢・破和合僧・出仏身血)・十悪(殺生・偸盗・邪婬・妄語・綺語・両舌・悪口・食・瞋・癡)•四重(殺生・偸盗・邪婬・妄語)のごとき社会的・倫理的悪業が惑業の例として掲げられているのも智に先蹤がある。以上のように三道について語釈を行なった日蓮は、次に、三徳について説明を与え、「法身とは法身如來、般若とは報身如來、解脱とは應身如來なり」と端的に規定するのであるが、三徳がほのかに肉体的具象性を示唆する三身の如来で説明されているところに、「苦果の依身」という肉体性において生死をとらえている認識方法との対応が認められるように思う。しかし、三徳を一仏三身の如来としてとらえるその方法にも、やはり智に先例がある。すなわち、『玄義』巻第五下の「類通三道」の条で、三道と三軌(真性軌・観照軌・資成軌)との相即を説も智は、「類通三身」の条にいたって、「眞性軌は印ち法身、觀照は印ち報身、資成は印ち應身なり」と規定している。こう見てくると、三道と三徳とのそれぞれについて日蓮が与えた語釈は、ほとんどみな智に由来する、という印象を受ける。しかしながら、三道即三徳を論断する最後の一条に立ちいたると、日蓮は独自の真面目を発揮しているように見える。
問答第六の二の最後の一条は、前掲の通り、「我等衆生、無始曠劫よりこのかた此の三道を具足し、今法華經に値ひて(今値法華經)三道印三コとなる也」と記している。文は平明であって疑義は存しないようにみえ、問答第四および第六の一に既出の相対種論がまたもやここに繰りかえされているに過ぎぬようにもみられる。しかし文中の「今値法華經」の五字に注意して前後を精読すると、既出の相対種論とこの一条におけるそれとが重要な一点において根本的に相違していることに気がつく。既出の相対種論は、理論の上で三道と三徳との相即を主張する理観であり、三道は成仏のための仏種となりうる一般的可能性において措定されているに過ぎないのにたいして、ここでの相対種論は三道の三徳への転化を保障した事観であり、三道は衆生成仏のための仏種とならざるをえない必然性において掲出せられている、という相違がそれである。そしてこのような相違の契因として指摘されているのが、「今法華經に値ひて」という一つの事態に他ならない。ところで日蓮は、この一句にどのような内容を含ませていたか、また常忍は、この一句によって何を理解しえただろうか。これらはいずれも判断の困難な問題であるが、日蓮としては少なくとも、久遠の過去から末代の今まで三界六道に流転をつづけてきた衆生にたいして、三界からの脱出=成仏が確約された歴史的事件として、「今法華經に値ひて」の一句を掲げたことはまちがいあるまい。それと同時に、この一句は法華経こそが相対種への開会の唯一の能主である、とする日蓮の断乎たる判断を明示したもの、といえるだろう。そして、この断案のうちにこそ、智の教観を超出した日蓮の真面目がある、というべきだろう。たしかに、前述したように、『文句』巻第七上、『止觀』巻第一上その他において、智は三道即三徳の相対種論を提示した。しかし立論にあたって智が援用した経典は、あるいは浄名経(=維摩詰所説経)、あるいは華厳経、あるいは別の箇所では大品般若経であって、必ずしも法華経ではなかった。また、『玄義』巻第五下に「類通三道」として三軌即三道を説くにあたっては、まさに法華経を典拠として掲げているけれども、これは法華経の章句を「文証」として援用しているまでのものであって、「開会の能主」として法華経を挙げたわけではなかった。しかるに日蓮は、三道をして三徳へと転成させる権威と権能とを法華経のみに与え、その法華経に衆生が値遇することによつて三道は事実の上で三徳に転化する、と断案した。
ここにおのずから二つの問題が起 ってくる。一つは、法華経のそのような権威と権能は何に基づく、と日蓮は判断していたのか、という問題であり、もう一つは法華経との値遇は何によって起り、何を志向する、と日蓮は思惟していたか、という問題である。しかし日蓮は、『始聞佛乘義』に関する限りでは、この二つの問題について明答を与えてはいないのである。その理由の一つは、本書が、智教学にも明るく、日蓮自身の教説についても、その展開の節目毎に懇篤な示教を受けている富木常忍その人に与えられたものに他ならない、という点に存するだろう。この二つの問題については、常忍自身あるいはそのグル―プに書き与えられた『觀心本奪抄』、『法華取要抄』、『四信五品鈔』等で、最深の問題次元において、すでに解答が与えられていた。だから、「今値法華經」の五文字を書き送りさえすれば、それは一つの高性能のサインとして機動し、常忍は一切を察知しうる状態に置かれていた。もしも本書の名宛人がこのような常忍でなかったとすれば、そのうえ、本書の執筆動機が「死者」常忍の母の回向に焦点づけられたものでなかったとすれば、日蓮は右の二つの問題について、解答を行なったかも知れないのである。すなわち日蓮は、たとえばーー「乗種」衆生に内在する「性種」としての就類種・相対種に対置される概念で、仏の側から衆生にたいして仏種として与えられる教説ーーとしての法華経の概念について説き、さらにその仏種を下し、それを成熟させ、最後に結実・解脱させる、仏の化導計画の実践を意味する「種・熟・脱の三益」について説き、そのうえ、そのような化導計画の実践が、寿量品「自我偈」の最後に「毎に自らこの念を作す、何を以てか衆生をして無上道に入り、速かに佛身を成就することを得せしめん」とうたわれた釈迦牟尼如来の「誓願」の大慈悲に他ならないことを縷説したかも知れない。他方、法華経の権能の問題についても、同様の事情が想像されうる。すなわち、法華経が相対種~「への開会の唯一の能主であるのは、この経典が一切衆生の成仏を達成させようとする如来の誓願行の実践記録であるだけではなく、未来永劫にわたるその宜誓書であるからであり、究竟していえば、法華経とはもとより経典の名称ではなく、言語化され、文字化された如来の誓願行そのものに他ならないからである。「今値法華經」というとき、その値遇の主体はいちおうは衆生であるけれども、たんなる「出会い」ではないところの「値遇」は、計画的化導の実践途上にある如来の大慈悲の一つの発露に他ならない。書簡の相手がもしも常忍でなかったとすれば、たとえばこのような法華経観を日蓮は注記したかも知れない。しかし日蓮は、『始聞佛乘義』においては、法華経の権能についても、法華経との値遇の意味についても、このような解説をあえて行わなかった。それには、「今値法華經」の一句のうちに、常忍が深義の法門を読みとりうる素養と能力を備えていた、という理由の他に、乗種論上に種・熟・脱三益の化導計画を説き、衆生成仏をいわば歴史形而上学的に論定する一種スコラスティックな論法を意識的に避け、「死者」常忍の母の菩提のために、即身成仏の直道を端的に指示したい、という念願が日蓮を領していたから、という第二の理由が考えられる。事実、第六の三以下の問答は、そのことを示唆している、と思う。
〔問答第六の三〕
難じて云く、火より水は出でず、石より草は生ぜず。悪因惡果を感じ、善因善報を生ずるは佛ヘの定まれる習なり。而るに我等其の根本を尋ね究むれば、父母の精血赤白二H和合して一身と爲る。惡の根本不淨の源也。「設ひ大海を傾けて之を洗ふとも清淨なるべからず。」又此の苦果の依身は、共の根本を探り見れば、貪・瞋・癡の三毒より出づる也。此の煩惱・苦果の一一道に依って業を構ふ。此の業道印ち是れ結縛の法也。譬へば籠に入れる鳥の如し。いかんが此の三道を以て三佛因と稱せんや。譬へば糞を集めて栴檀を造れども、終に香しからざるが如し。答ふ。汝が難大いに道理也。我此の事を辨へず。但し付法藏の第十三、天台大師の高祖龍樹菩薩、妙法の妙の一字を釋して、「譬へば大藥師の能く毒を以て藥と爲すが如し」等云云。毒と云ふは何物ぞ、我等が煩惱・業・苦の三道也。藥とは何物ぞ、法身・般若・解脱也。能く毒を以て藥と爲すとは何物ぞ、三道を變じて三コと爲すのみ。天台云く、「妙をば不可思議と名く」等云云。又云く、「夫れ一心乃至不可思議境、意ここに在り」等云云。身成佛と申すは此れ是れ也。近代の華嚴・眞言等此の義を盗み取りて我物と爲す。大偸盗天下の盗入是れ也。
「今値法華經」の五字に、三道を三徳へと転化させる法華経の開会の権能を感得し、さらに法華経開会のはたらきの背後に釈迦如来の大慈悲を信感する柔和質直な精神にとっては、問答第六の二以上に論議を重ねることは無用だろう。しかし因果応報の常識論的合理主義に立った決定論者の眼には、「三道を以て三佛因と稱」する者は非合理的日和見主義者と映ずるだろう。だから、このような決定論者は、『大智度論』巻第十九における龍樹の偈「海を傾けて此の身を洗ふとも、香潔ならしむる能はず」をも援用して、問答第六の二の答者を難詰するにちがいない。しかし、それに応答する日蓮は、合理に非ず、反合理に非ず、非合理に非ず、まさしく超合理の立場に立つ。「汝が難大いに道理也。我此の事を辧へず」とは、合理主義的詭弁の拒否を意味するだろう。次いで、同じく『大智度論』巻第十九における龍樹の所言、「譬へば大藥師の能く毒を變じて藥と爲すが如し」をも日蓮が引用したのは、法華経を超合理的機能の一面において強調したのだ、と考えられる。そこに日蓮が龍樹の右の所言につき「妙法の妙の一字を釋して」と注したのは、『大智度論』の文面に即した談道ではない。それは、すでに禅智日好も指摘しているように、智が『玄義』巻第六下に龍樹の右の言を引いて「融麁令妙」(=「開麁顕妙」)の証とし、兼ねて法華経の妙義を顕彰したものとみた、その判釈に日蓮が依ったのだ、と解されるだろう。いずれにしても法華経の超合理的機能の不可思議性を指摘して、常識論的合理主義の俗物的思惟方法を圧倒し去るのが日蓮のねらいであった、といえよう。引きつづいて日蓮が、『玄義』の「序王」に記されている「妙をば不可思義と名く」を挙げ、さらに『止觀』巻第五上における一念三千義の本文「夫れ一心乃至不可思義境、意一こに在り」を掲げたのも、法華経のまさしく超合理的機能の不可思議性を強調するのが本旨であっただろう。もとより、『玄義』の「序王」における「不可思議」の語も、『止觀』におけるそれも、原文のそれぞれの文脈においては、いわば密教的な神秘力を意味するのではなく、あるいは思議を絶した十界十如権実法の絶妙なあり方を、あるいは一念三千の玄妙深絶なかかわり方を示唆したものであろう。しかし日蓮は、少なくともここでは、「不可思議」を超合理的機能の意味に解し、それを法華経の独自の特徴とした。それだけではなく、日蓮は、一切衆生の即身成仏を法華経の妙用として措定した。「即身成佛と申すは此れ是れなり」の一文がそれであり、その言には思弁的形而上学のかげりを一挙に破砕して、端的に即身成仏の直道を指示しようとする日蓮の悲願がこめられているように思われる。最後に、「近代の華嚴・眞言」の「大偸盗」が告発せられているのは、即身成仏の直道が法華経のみに限定せられなければならないからである。
〔問答第七〕
問て云く。凡夫の位にして此の秘法の心を知るべきや。答ふ。私の答は詮無し。龍樹菩薩の『大論』に云く、「今、漏盡の阿羅漢還て作佛すと言ふは、唯佛のみ能く知しめす。論議とは正しく共の事を論ずべし。測り知ること能はず。是の故に戯論すべからず。若し佛を求め得る時、乃ち能く了知せん。餘人は信ずべし、而も未だ知るべからず」等云云。此の釋は爾前の別ヘの十一品斷無明、圓ヘの四十一品斷無明の大菩薩、普賢・文殊等も未だ法華經の意を知らず、いかに況や藏・通二ヘの三乘をや。いかに況や末代の凡夫をやと云ふ論文なり。之を以て案ずるに、法華經の「唯佛與佛乃能究盡」とは、爾前の灰身滅智の二乘の煩惱・業・苦の 三道を押へて、法身・般若・解脱と説くに、二乘還て作佛す。菩薩・凡夫も亦是の如しと釋する也。故に天台云く、「二乘の根敗は之を名けて毒と爲す。今經〔=法華經〕に記を得るは即ち是れ毒を變じて藥と爲すなり。論に云く〈餘經は秘密に非ず、法華は是れ秘密なり〉」等云云。妙樂に云く、「論に云くとは『大論』也」と云。
三節に分けられた問答第六に立ちいたって、相対種論は法華経の超合理的不可思議性に基づき、みごとに事観化されるにいたっただけではなく、即身成仏論として確立されるにいたった。こうして相対種論そのものは、いちおうの完成をみるにいたった、とい ってよかろう。それだけに、ここにあらためて問題になってくるのは、法華経の超合理的不可思議性とは何か、という一事であろう。問答第七に入って、「凡夫の位にして此の秘法の心を知るべきや」が問われる所以である。この設問は、すでに「不可思議」と刻印づけられた法華経の存在、機能、意味を知的に認識し、あるいは理解することの可能性を、あえてあらためて問おうとするものである。しかし問者は、たんなる一般論としていわばクー ルにこれを質そうとするものではなく、いささかの断惑証理の実績をももたぬ凡夫ながらも、仏道修行の行人たる姿勢だけは備えている一個の存在である。「凡夫の位」における「位」の語がそのことを示唆している、と思う。いったい「位」とは、見思・塵沙・無明の三惑を順次に断伏して終には妙覚の極果にいたろうする行人の所階を意味するが、「行人の搶纐揩フ心を破せんが爲」として智は『玄義』巻第四下ー第五下にわた「て「位妙」について詳論し、その中で『瓔珞經』によ っ て別教の菩薩五十二位を明し、且っそれを援用して円教の菩薩五十二位を立て、さらに『法華經』によって菩薩五十ニ位の前に「五品弟子の位」をも設けた。問答第七において日蓮は、智のこのような位次観を前提にしながら、それを突き破って一挙に法華経の秘密に味」する方途を探求した、とみられるだろう。すなわち劈頭の「凡夫の位にして此の秘法の心を知るべきや」の設間にたいして、日蓮は、またもや龍樹の『大智度論』巻第九十三の所論五、を挙げ、そこに「餘人は信ずべし、而も未だ知るべからず」と強調せられていることを指摘すると同時に、すぐさま龍樹の言に付注して、「餘入」の中に、五十ニ位において妙覚の極果に最も近く、それに隣接する等覚の大菩薩さえも含まれていることに特に注意する。普賢・文殊といえども、ただ「信」によってのみ法華経の不可思議性に近づくことができる、というのである。いずれにしても、問答第六の三の場合と同じく、この第七においても龍樹の所言を一つの権威とみる日蓮の立論方法は十分注意されてよい。
ところで問答第七において日蓮は、法華経の不可思議性についてその不可知を論じ立てただけではなく、それの信受による不可思議性の実現について、重ねて説いている。すなわち身を灰にし、分別智を滅却して空理に安住する声聞・縁覚のニ乗は根敗(=五根敗壊)の士の如きものとして、爾前の大乗諸経では弾呵せられ、作仏はきびしく拒否されていた。古代インド社会における独善のインテリともいうべきこのようなニ乗でさえ、それの三道がそのまま三徳に他ならぬ、と説く法華経に値 っ て成仏する。菩薩や凡夫もまさにその通りである―ーこのように説く日蓮は、法華経 の不可思議性が、それの不可知性にもかかわらず、自己を貫徹して実現することを問者に確信させようとするものだろう。末文に「故に天台云く」として『玄義』第六の下の一節を引いたのは、日蓮の所論が独断でない = との文証としてであろうが智自身の文中で、やはり龍樹の『大智度論』巻第百における「法華秘密」・「以毒爲藥」の論が重用されてる点にかかわ。て、日蓮(日本)ー智(中国)ー龍樹(インド)の濃密な思想系譜ーーそれと同時に、蔽うべからざる思惟方法の変転が認められよう。
〔問答第八〕
問ふ。是の如く之を聞(如是聞之)て何の益有るや。答て云く、始めて法華經を聞く(始聞法華經)也。妙樂云く、「若し三道印是れ 三徳と信ぜば、尚能くニ死の河を度る。況や三界をや」 云々 。末代の凡夫此の法門を聞かば唯我一人のみ成佛するに非ず。父母も又即身成佛せん。此れ第一の孝養也。病身たるの故に委細ならず。又申すべし。
法門が終ろうとするとき、それの利益を明かにするのは論議の常例であるから、この問答第八が設けられた、とうだけではない。事観化された相対種論に立って打ち出された即身成仏義が、まさしく この書簡を受ける常忍とその亡母の上に実現するのだ、という保障が与えられなければ、故霊の頓證菩提を祈念しつづけているはずの常忍にとっては、 この書簡もいわば無益の戯論に過ぎなものとなるだろう。その故に襟を正して、「是の如く之を聞(如是聞之)て何の益有るや」を問う ことになるが、右の「如是聞之」の一句は、ほとんどすべての経《の導入句「如是我聞」における「如是」の客観的真理性と「我聞」の主体的参与性の深義を想起させる。それと同時に、「如是聞之」における「聞」の一字は、問答第六の一に引かれた『止觀』の「いかなるか、圓の法を聞く(云何聞圓法)」の「聞」を受けていることに気がつく。このように設問が重厚であることにまさしく対応して、答もまた荘重をきわめており、「始て法華經を聞く(始聞法華經)也」と厳選された表現で受けとめられてる。古来、本書の標題とされてきた「始聞佛乘義」はこの答の一句に由来するものであることは間違いあるまい。法華經」は、まさに一切衆生の成仏の教としての「佛乘」そのものに他ならず、「始めて法華經を聞く」とは、答第六の二に「今法華經に値ひて」というに等しく、またそれは『止觀』に記された「圓の法を聞く」と同意である、と日蓮は思考していた、とみられる。それと同時に日蓮は、この問答第八に引かれた「妙樂の釋」、すなわち湛然の『止觀輔行傳弘決』巻第一のニの一節にいうところの「若し三道印是れ三コと信ぜば、尚能く死の河を度る。況や三界をや」によって、「法華經を聞く」とは「三道印是れ三コと信ずる」ことに他ならな問答第六の二に日蓮自身が掲げた法華経との値遇は、智の釈を通じてそれの聴聞と同一視され、さらに湛然の釈を介して、それの信受と同一視されるにいたった、とみられるのである。「三道即三コ」の理観は智によって強調されたところであるが、その命題そのものを客観化してそれを信受の対象とし、それによって智の理観を事観化した点に湛然の特長がある、といえよう。日蓮の立場は智その入よりも、このような湛然に近い、というべく、ここにも日蓮の、湛然への親近性が認められる。いずれにしても日蓮は、湛然の釈によって、法華経聴聞の利益として「尚能く二死の河を度る、況や三界をや」の功徳を挙げ、その利益をたんに「生者」常忍だけではなく、「死者」常忍の母にたいしても保障した。「ニ死」とは『勝鬘經』一乗章第五にいう「分死・不思議變易死」の二であり、隋の嘉祥吉蔵に『勝鬘寶窟』の経疏があるが、智もまた『玄義』・『文句』・『止觀』の諸所で、「ニ死」の概念を駆使している。『弘決』の引個所では、たんに「死」だけが掲げられているけれども、実は「生死」の意味であり、前に触れた位次論と関連がある。すなわち、「分段の生死」とは、三界六道の界内に沈湎して流転を重ねる見・思未断の凡夫の分際を意味し、「不思議變易の生死」とは、見・思の惑を断じたニ乗たちの、欲・色・無色の三界を超出した界外でなお且っ生死の果を感ずる聖者の境涯を指す、といえようか。そして、爾前の思惟方法の下では、深位の菩薩に限って、「二死の河を度る」ことができる、と説かれていた。しかるに、「三道三コ」の信受によって、凡夫も三界からの超出が可能であるのはもとより、二乗には拒絶されていた二死の渡河も可能になる、と主張したのが湛然であるが、この湛然の所断をもって日蓮は法華経聴聞の利益に擬したわけだ。すなわち、「末代の凡夫此法門を聞かば」、それを聞いた当入はもとより、その父母もまた即身成仏するに違いな、と日蓮は断定した。このように書き送られた常忍は、『忘持經事』についての小考で指摘したように、亡母との一体化を霊感することのできた恵まれた存在ではあったが、しかも故霊の菩提について懸念と不安を持ちつづける「見・思未斷の凡夫」に他ならなかった。だから、病軅をおしての日蓮の教化と断案に、常忍は亡母成仏についての不安を払拭するとともに、変らぬ日蓮の情誼に人知れず感泣したことだろう。書簡の末尾には「病身たるの故に委細ならず」と付記されている。事実、その通りであるかも知れないことは、あえて多くの私釈を加えたこの拙考そのものが示唆している。しかし、文字の面をたどるのではなく、それを記号として日蓮の「心」と法華経の「意」とを味読しようとする常忍にとっては、『始聞佛乘義』はやはり一つの完璧な大法門であったに違いあるまい。
1973・5・21