法哲学者が理詰めで語る、
ウクライナ侵攻を仕掛けたプーチン・ロシアの圧倒的な悪と親ロシア派学者への怒り
イースター(復活祭)に合わせた30時間の停戦を一方的に提案したプーチン大統領(写真:代表撮影/ロイター/アフロ)
ウクライナ戦争が始まってすでに3年が経った。当初はプーチン大統領の数々の誤算が報じられたが、トランプ氏が米大統領に再選すると、先行きが不透明になり、半ば強引な停戦交渉が始まった。この展開をどう理解したらいいのか。『悪が勝つのか? ウクライナ、パレスチナ、そして世界の未来のために』(信山社)を上梓した法哲学者で、東京大学名誉教授の井上達夫氏に聞いた。(聞き手:長野光、ビデオジャーナリスト)
──「悪が勝つのか?」というタイトルですが、どんな思いがあって、この本をお書きになったのですか?
井上達夫氏(以下、井上):国際法で規定された戦争に関する2つの重要な正義の原則があります。
1つは「戦争への正義」(jus ad bellum)です。「開戦法規」とも呼ばれますが、戦争を始めることが正当化される理由や根拠は何かということです。これは基本的には自衛権行使であれば認められます。個別的自衛権だけでなく集団的自衛権も含まれます。
厳密には自衛権行使にあたらなくても、平和維持のために必要だとして、国連の安保理が承認した武力行使であればいいというのが通説です。
もう1つは、戦争を文明のルールに従って野蛮な殺し合いにならないようにするための原則で、「戦争における正義」(jus in bello)と言います。「交戦法規」という言い方もあります。
戦争を考える際には、この2つの原則に準じてことが進められているかを見なければなりません。
ウクライナ戦争に関しては、ロシアのあからさまな侵略なので、開戦法規違反です。しかも、ブチャ虐殺を始めとした民間人や民間施設への無差別攻撃が続いていますから、交戦法規違反でもあります。
戦争に関する正義の原則を破るようなことが平然と行われている。法哲学者こそここで発言しなければならないのに、法哲学会どころか、国際法学者もあまり声をあげていません。
──確かにそうした観点での議論はあまり見かけません。
井上:もう1つ、私が非常に残念に思うのは、ウクライナ戦争が始まった当初、比較的まともだと思われた学者たちまでもが「仕方ないよね」という態度を示したことです。
戦争開始当初は「NATO東進帰責論」という考え方が見られました。冷戦崩壊後にワルシャワ条約機構も崩壊し、旧ソ連・旧社会主義国に対して、NATO(北大西洋条約機構)が拡大して、それがロシアを追い詰めた。だからNATOの東方拡大が悪い。そういう考え方ですが、これは間違っています。
■ 「NATO東進帰責論」が間違っている理由
井上:プーチン氏は首相時代から大統領になった最初の頃まで、NATOとの関係は良好でした。NATO側もまたプーチン大統領を受け入れて、準加盟国にして、ゆくゆくはロシアをNATOに入れたいとまで考えていました。
状況が変わってきたのが、2003年のグルジア(現ジョージア)のバラ革命、2004年のウクライナのオレンジ革命あたりからです。旧ソ連諸国がどんどん欧米的な価値観を受け入れて民主化するようになると、ロシアは軍事介入を始めました。
2008年には南オセチア紛争で、ロシアは南オセチアとアブハジアという傀儡国家を作って独立させました。2014年には、ウクライナに対してクリミアを併合し、ドンバス地方にロシア軍が秘密裏に介入して親ロ派の傀儡政権を作ろうとしました。
かつてはロシア+G7で「G8」などと呼ばれていたのに、プーチン大統領が軍事的拡張主義の方向を取ったがゆえにNATO・西側諸国は離れていったのです。
それでも、西側の対応はずっと及び腰でした。南オセチア紛争やクリミア併合・ドンバス干渉でも、ロシアに対し外交的非難や軽い経済制裁はしたものの直接の軍事介入は一切しないという姿勢を米国も欧州諸国も貫きました。
今回のウクライナ戦争では対露経済制裁を強化し、ウクライナへの武器と軍事情報の供給はしていますが、直接の戦闘参加はしないという点で基本的に同じ姿勢に徹しています。
──ロシアを刺激しないように、むしろNATOはかなり気を使ってきたのですね。
井上:ロシアにとって、NATOは脅威を高めていたどころか、米国と欧州の内部対立により弱体化していたのです。
イラク戦争などジョージ・W・ブッシュ政権の一方主義的な軍事介入や、第一次トランプ政権の米国第一主義を通じて、欧米の間に亀裂が走るようになり、NATOも欧州だけで戦略本部を作ろうという動きを見せました。
前著『ウクライナ戦争と向き合う プーチンという「悪夢」の実相と教訓』(信山社、2022年)で詳論したように、ウクライナ侵攻の真因はロシアという国家の防衛ではなく、プーチン自身の権力の防衛です。
■ 暴露された「盗賊国家」の最大の盗賊
井上:20年以上にわたるプーチン体制の前半は、無能なエリツィン政権の下で崩壊したロシア経済を立て直したプーチン大統領の人気は絶大でした。
ところが、政権長期化とともに、プーチン体制が専制化し、「盗賊国家(kleptocracy)」と呼ばれるほど腐敗堕落が国家機構全体にはびこりました。
さらに、反体制派のアレクセイ・ナワリヌイ氏の組織がYouTubeに流した「プーチン宮殿」の動画によって、この盗賊国家の最大の盗賊がプーチン大統領自身だということが暴露されました。
弾圧を恐れて国民の多くは沈黙していますが、面従腹背という形で、不満が水面下では広がっています。
この状況で、プーチン大統領は自己の国内的権力基盤を再強化するために、西側の脅威に対してロシアの安全を保障するという口実で、ウクライナ侵攻を始めました。国民の不満を「外敵」にそらし、反プーチン派に「外敵と協力する裏切り者」の烙印を押して、国民を結束させ、自己への忠誠心を強化しようとしたのです。
プーチン大統領の狙いからすると、欧州と米国の対立でNATOが弱体化し、無残なアフガニスタン撤退という軍事的挫折で米国が痛手を負っていた当時の情勢が、ウクライナに侵攻するタイミングとしては、非常に都合が良かったのです。
ウクライナ侵攻の結果、米国と欧州が再結束し、中立国だったフィンランドやスウェーデンまでNATOに加盟することになり、プーチン大統領は戦略的判断を完全に間違えたわけですが。
──プーチン大統領を止められるのは、西欧ではなく、ロシア国民であり、ロシア国民に情報戦でもっと影響を与えていく戦略を取るべきだと書かれています。
井上:対露融和主義を唱える人々は、西側にだけウクライナ支援をやめさせようとします。なぜロシア国民にプーチン大統領の侵略をやめさせるよう説得しないのでしょうか。それは、ロシア人はプーチン大統領の言いなりになっていると思い込んでいるからです。
ロシア国民はプーチン大統領の恐怖政治に抑えつけられていますが、反プーチン層は潜在的にロシアの中に存在しています。プーチン大統領もそうした心理がマグマのように存在していることを知っているから、外に敵を設定して国内の結束を固めようとしている。だからこそ、彼はこの戦争をやめるにやめられないのです。
現在、ロシア軍の戦死者数は20万人を超えていると言われています。ことに最近は、積極的に占領地を拡大しようとしている分だけ犠牲者の数も凄まじい。
ロシアは経済的にもかなり逼迫しています。
■ 親露派学者に感じる怒り
井上:1917年にロシア革命がありました。ツァーリの専制体制を打倒して、共産主義体制ができました。革命の先頭に立ったのはボリシェヴィキ(レーニンの左派一派)の前衛エリートでしたが、民衆がそれを支持して蜂起しなければ成功しなかったはずです。
その共産主義体制は、ツァーリの専制政治などよりはるかに強固な全体主義的統制を70年間続けましたが、冷戦崩壊後に解体され、ロシアは民主化しました。
その後、エリツィン大統領の失政で経済が混乱し、プーチン体制に変わりましたが、プーチン大統領もあくどい権謀術数を駆使したとはいえ、経済を立て直して国民の絶大な支持を得てその権力を強化しました。
わずか1世紀の間に、極めてラディカルな体制変革をロシア国民は2回もやっているのです。
──変わる力のある国なのですね。
井上:独裁化を進め、国益よりも自己の権力保持を優先させているプーチン大統領に対して、彼がこのまま暴走を続けるなら、ロシア国民が不満を噴出させ、もう一度体制変革のために立ち上がる可能性はあると思います。
実際、ロシアのエリート層や軍部、ロシア連邦保安庁(FSB)のような人たちの中にさえ、このままではまずいと考えている人たちはいます。クーデターが起こる可能性は十分にあるのです。
クーデターが成功するためにはロシア国民の支持が必要です。1991年にソ連が崩壊し、ロシアが民主化していくときも、大勢の国民がそれを支持して結集したので、軍隊は動きませんでした。ロシア人をなめちゃいけません。
私が特に怒りを感じるのは、日本の親露派の学者たちです。具体的には名前を言いませんが、対露融和主義の人が何人もいます。
日本の親ロシア派の人たちは、YouTubeやテレグラム(この2つのSNSはロシアで利用が許されている)から、ロシア語でプーチン大統領の戦争がいかに愚かか、こんなことをしたら国際社会で相手にされなくなるぞと、なぜロシア国民に向ってメッセージを配信しないのか。
この人たちは、親露派といっても、本当はロシア人を馬鹿にし、ロシア国民への敬意も愛も持ち合わせていないのです。(続く)
井上達夫(いのうえ・たつお)
法哲学者
1954年、大阪生まれ。東京大学法学部卒業後、東京大学助手、千葉大学助教授を経て、1991年東京大学大学院法学政治学研究科助教授、1995年より2020年3月まで同教授。現在、東京大学名誉教授。本書以外の主な著作に、『法という企て』(東京大学出版会、2003年、和辻哲郎文化賞受賞)、『現代の貧困――リベラリズムの日本社会論』(岩波現代文庫、2011年)、『世界正義論』(筑摩選書、2012年)、『自由の秩序――リベラリズムの法哲学講義』(岩波現代文庫、2017年)、『立憲主義という企て』(東京大学出版会、2019年)、『普遍の再生――リベラリズムの現代世界論』(岩波現代文庫、2019年)、『生ける世界の法と哲学――ある反時代的精神の履歴書』(信山社、2020年)、『増補新装版 共生の作法――会話としての正義』(勁草書房、2021年)、『増補新装版 他者への自由――公共性の哲学としてのリベラリズム』(勁草書房、2021年)など。
長野光(ながの・ひかる)
ビデオジャーナリスト
高校卒業後に渡米、米ラトガーズ大学卒業(専攻は美術)。芸術家のアシスタント、テレビ番組制作会社、日経BPニューヨーク支局記者、市場調査会社などを経て独立。JBpressの動画シリーズ「Straight Talk」リポーター。YouTubeチャンネル「著者が語る」を運営し、本の著者にインタビューしている。