子育てが「金持ちの暇つぶし」と化した終末社会・日本…「子どもを育てたくない」は若者たちの生存戦略だ

 

窪田順生:ノンフィクションライター

 

団欒を楽しむ家族

 

人は何のために子どもを産んできたのか?

「普通の人こそ、子供持つといいと思うんだけど、みんなバカやなー 子供わちゃわちゃすぎてめっちゃ生きてる感出るし究極の暇つぶしになるのにな みんななんのために生きてるのw」

 経済学者・成田悠輔氏の弟で起業家の修造氏のこんなXの投稿が賛否両論で物議を醸している。発端は3月21日に報道された、ある調査結果だ。

 日本大学の末冨芳教授らの研究グループが、全国の15歳から39歳までの男女およそ4000人を対象に「若者の困難の実態」に関してオンライン調査を行った。その結果、なんと「子どもはおらず、子どもは育てたくない」と答えた人が52.0%に上ったというのだ。

このニュースを受けて成田修造氏は上記のように「バカやなー」とコメントしたというわけだ。

 実際に子育てしてきた経験から、成田修造氏の「生きてる感出る」はわからんでもない。しかし、「子ども持つこと=生きる目的」というのは正直あまり思ったこともない。もし自分が子どもの立場だったらかなり「重荷」だし、親に対しても自立した大人なんだからもっと別に生きる目的を探してほしいと思う。

 さらに言えば、「子どもを持ちたくないのはバカ」という主張は個人的に賛同しかねる。歴史を振り返れば、この50年ほどで少子化が一気に進んだのは、日本人が合理的に物事を考えるようになった結果でもある。

 つまり、「バカ」だから子どもを持たなくなったのではなく、「賢い」からこそ子どもを持たなくなった、と見るべきではないのか。

 という話をすると、「確かに世界を股にかけて活躍する超高学歴カップルは子どもがいないことが多いけれど、成田さんが言っているのは何の取り柄もない一般人のことで、そういう人たちこそ子どもをつくって生きる幸せを実感すべきだって話だろ」というツッコミが入るかもしれない。

 ただ、筆者が本稿で使っている「賢い」というのは、東大卒だとかIQが高いとかという話ではない。この厳しい生存競争の中で、したたかに、しぶとく生き残っていくためには何をすべきかという状況判断力のことだ。

もちろん、昔の若者も薄々勘付いていたが、周囲の大人がよってたかって「ま、いろいろあるけれど仕事が終わって子どもの寝顔を見ると明日も頑張ろうってなるよ」とか「人間が子孫を残さないで生きている意味があるのか?」なんて説得にかかって結婚や出産へと「誘導」した。

 しかし、今の若者たちはそういう精神主義や同調圧力にも流されない。だから、「子どもを育てたくない」と自分の意志を主張できる者が52%もいるのだ。

「そうやって自分さえ良ければいいという若者が多いから今の日本はダメなのだ。子どもを持って、親になることで誰かのために生きる強さを身につけるんだろ」と憤る人もいらっしゃるだろうが、実は日本の庶民の間で「子どもを持つ」ことに対してそういう精神論が広まったのは戦後になってからだ。たかだか80年くらいの「新しい常識」にすぎない。

 では、それまでの日本人は何のために子どもを持ったのかというと、シンプルに「自分のため」、あるいは「国のため」という「実利」である。

 子どもは「労働力」と「社会保障」の役割を担っていたので、多くいればいるほど生存競争に有利だった。特に、貧しい家庭にとって、子どもをたくさんいるか否かは死活問題だった。

 それがよくわかるのが、「貧乏子沢山」という現象だ。戦前くらいまで日本人は子どもは4人、5人くらいいるのが当たり前で、農家などは7人くらいというところも珍しくなかった。なぜかというと「農家ほど子ども好きが多かったから」なんて話ではない。「父や母が倒れたとき、亡くなったときの代替の労働者・介護者が必要だった」からだ。

 男の子だったら、農作業や商売の手伝いをさせた。女の子も一家の経済を支えるために奉公に出したり、有力者に嫁がせたりした。非常に悲しい事実だが、1930年代の昭和恐慌などでは娘を女衒(女性を遊郭など、売春労働に斡旋する仲介業者)に「身売り」する農家が多く報告されている。

 令和の感覚ではこれらは「児童の人権侵害」「人身売買」だろう。しかし、この過酷な時代を生き抜く日本人にとって、「親のために子どもが犠牲になること」は常識だった。

 このあたりは、かつて社会現象にもなった人気アニメ「鬼滅の刃」がわかりやすい。

この物語は明治期を舞台にしており、主人公・竈門炭治郎は「炭売り」を生業としている家庭の長男で下に5人の弟や妹がいる。

 竈門家の父は病弱で、母や子どもたちみんなで看病をしていたが亡くなってしまう。そこで、炭治郎が一家の大黒柱として働いて家計を支え、幼い弟や妹も母を手伝って暮らしていた。

 つまり、国民皆保険や年金・介護保険という制度がない時代、父親が病気になった竈門家が存続できたのは、「6人の子ども」が「労働力」と「社会保障」として機能していたからなのである。

 だから、竈門家のような貧しい家ほど子どもをたくさん持った。貧しいということは栄養状態が悪く、子どもが飢えや病気で死んでしまうリスクが高い。1人や2人では心許ない。つまり、かつて日本人が5人も6人も子どもを持ったのは、子どもが可愛いわけでもなく、子育てに生き甲斐を感じていたわけでもなく、ごくごくシンプルに自分自身が生きていくための「労働力」と「社会保障」のためだったのだ。

 

少子化を加速させたのは「高度経済成長」と「社会保障」

しかし、戦後になると日本人にとっての「子ども」というものの意味が徐々に変わっていく。

 それがよくわかるデータがある。実は戦前の「貧乏子沢山」という傾向は戦後も少しだけ続いていて1947年には合計特殊出生率は4.54もあった。しかし、ここからフリーフォールのように急落してわずか10年で2.04(1957年)まで一気に落ち込む(内閣府「選択する未来 −人口推計から見えてくる未来像−」)。

 この水準が1975年あたりまで続くことを踏まえれば、1947年から1957年の出生率の落ち込みは「異常」だ。この10年の間で、日本人に「子どもを持ちたくない」と思わせる強烈な出来事があったと考えるべきだろう。

 そこでよく言われるのが「高度経済成長」だ。戦後の焼け野原から復興を果たして、日本人がどんどん豊かになっていったので、「子どもを持ちたくない」と思う若者が増えたというのだ。

ただ、これは令和日本の議論とまったく矛盾をする。今の日本の若者は「貧しい」から子どもを持ちたくないということを、さまざまな専門家が主張している。そのため、政府も若者に対して結婚や出産を促す経済的な支援をしている。

 この理屈でいえば、高度経済成長がスタートして、「明日は今日よりもっといい日になる」と未来に希望を抱くことができた当時の若者はどんどん子どもを持とうとするはずだ。しかし、現実はその真逆で「子ども持ちたくない」という若者がドカンと増えた。

 実はこの不可解な現象は先ほど述べた「戦前まで子どもは労働力だった」という事実を受け入れると、すんなりと説明できる。

実は1947年に労働基準法ができた。この法律では「児童労働」を全面的に禁止している。つまり、戦前までの貧しい家庭の生存戦略の柱だった「子どもにも大人のように働いてもらう」ということができなくなってしまったのである。

 そうなれば、「子どもを生みたくない・育てたくない」という若者が増えて合計特殊出生率が低下していくというのは容易に想像できよう。

 貧しい家庭にとって、労働者ではない子どもは単なる「食いぶち」だ。5人も6人もいればただでさえ苦しい家計はさらに困窮する。誤解を恐れずに言えば、「児童労働」を禁止したことによって、子どもは経済的に余裕のある家庭の「贅沢品」となったのである。

 この「出生率の低下」に追い打ちをかけたのが、戦後から日本政府が推進してきた「避妊推奨キャンペーン」だ。

 戦時中まで日本では避妊が禁止されていた。「学徒出陣」を見ても分かるように、子どもは「兵力」だったので、「産めよ増やせよ」が国策だったのだ。しかし、それが戦後に180度方針転換された。

「国が一転して避妊を推進。助産師などが避妊方法を指導して回り、避妊具を配ったのです。背景にあったのは人工妊娠中絶の急増です。1953年には、年間100万件を超えるまでに。数ある避妊具の中でも、手軽で効果を実感しやすいコンドームが人気を集めました」(NHK はなしちゃお! ?性と生の学問? 24年2月8日)

 このように「児童労働の禁止」に「コンドームの普及」というダブルパンチで1950年代は合計特殊出生率が急落していった。つまり、令和の日本を疲弊させている「少子化」というのは、実は敗戦直後からスタートしている構造的な問題なのだ。

 そしてこの「人口減少トレンド」にトドメを刺したのが、「社会保障」だ。

1959年になると国民年金法が成立して、1961年には国民皆保険もスタートしていく。戦前まで日本の子どもたちに求められていた「親が病に伏せたら代わりに働いて治療費を稼ぐ」「寝たきりになった親を食べさせて、身の回りの世話をする」という役割を国が担ってくれるようになるのだ。これによって、「生存戦略としての子ども」というものの存在意義は完全に消失した。

 こうなってくると、もはや子どもを持とうというのは、「子どもが好き」「子どもが生き甲斐」という精神的充足感を得たい「経済的に余裕のある人」だけになってくることは言うまでもない。

かつて子どもたちがやっていた「社会保障」は確かに国が肩代わりにすることになったが、そのために国民は社会保険料を負担することになったからだ。

 もちろん、成田氏のように経済力のある人はこんなものは屁でもない。しかし「格差」が広がってくると、社会保険料を払ったらカツカツで、とてもじゃないが、子どもを持って養育費や教育費などを捻出し続けることはできないという人も雪だるま式に増えていく今がまさしくそうだ。

 こういう日本の現実を冷静に直視している若者が、「子どもを育てたくない」と感じるのは当たり前である。

 例えば、日本の社会保障費は約138兆円。2040年には190兆円となる予測だ。

 一般会計が110兆円を超えたとか、やれ緊縮財政だなんだと騒いでいるが、もはや我々の医療・年金はそういうレベルを超えているほど「膨張」をしている。この厳しい現実を見れば、これからの若者たちはこれまで以上に「重い負担」を背負わされることはわかりきっている。「自分のことしか考えていない」のではなく、「子育て最高!」「子どもを持つのは究極の暇つぶし」なんてことを言って人生を謳歌する「余裕」がないのだ。

 これまでの日本社会は「子どもをつくらないのはバカだ」「子どもを持つ幸せを知らないのか」という精神論と社会の同調圧力によって、なんとか一部の若者たちに「子どもを持つ」という選択をさせてきたが、もはやそれは限界だ。

 若者が子ども持たないのは「バカ」だからではなく、こういう異常事態になるまで社会保障などの問題から目を背けて、問題先送りを続けてきた大人たちの方が「バカ」だからだ。

 まずはその厳しい現実を直視しないことには、いつまでたっても若者たちはこの国に希望が持てないのではないか。

 

(ノンフィクションライター 窪田順生)

 

 

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