経済教室

 

 

AI時代に学ぶ「達人の技」 今井むつみ氏

 

慶応義塾大学教授

いまい・むつみ ノースウエスタン大博士(心理学)。専門は認知科学、言語心理学、発達心理学

 

ポイント

○ 一流の達人の独創は臨機応変な逸脱から

○ 逸脱を生み出す直観はAIで再現できず

○ 達人を目指して自ら学ぶ能力こそ必要に

 

生成AI(人工知能)のChatGPT(チャットGPT)が公開されて、2年あまりが経過した。AIは人間の学びや、思考のしかたを変えるのか。私たちはAIとどう付き合っていけばよいのか。「一流の達人の直観と独創性」をキーワードに考えたい。

どんな分野にも一流の達人が存在する。五輪メダリストや著名なアーティストがすぐに思い浮かぶが「他のひととは違う」とみなされる人はビジネスパーソンにもいるはずだ。そういう人は一般人や、普通の熟達者と何が違うのか。この問いは「AI時代をどう生きるか」というテーマの答えを導くヒントとなる。

今の生成AIは、インターネット空間のテキスト情報を教科書として学習する。文法的に間違いない文を流ちょうに生成するという点では、人間を上回るようになったかもしれない。

人間は長い文を生成するときに主語が何かを途中で忘れてしまい、主語と目的語が一致しない文を作ったり、単語の選択をうっかり間違えたりしてしまうことが頻繁にある。

しかし、生成AIは大量の情報を並列に超高速で計算できる。記憶力も人間に比べれば無尽蔵と言ってよい。だから、今の生成AIはまず文法の間違いをしない。他言語への翻訳もたちどころにしてくれる。

最近、ある情報を検索していた時にドイツ語の文献を見つけた。私は学生時代にドイツ語を学んだので、探している情報が文書に含まれていそうなことは分かったが翻訳はできない。少し前なら翻訳の専門家を探さなければならなかった。

しかし、その文章をChatGPTに放り込んだら1分ほどで日本語の翻訳が返ってきた。急ぎその情報が必要だったので、現代社会に生きる便利さの特権を味わった。

では、このような道具を使いこなすスキルやノウハウが現代に生きる一流の仕事人の条件なのだろうか。

◇   ◇

「カンマの女王『ニューヨーカー』校正係のここだけの話」という本を読んだ。米誌ニューヨーカーは米国の知識人が読む雑誌として名高い。洗練された英語に定評があり、文章は何重にもチェックされる。著者のメアリ・ノリス氏は同誌の最終的な文法チェックをする校正者だ。

ニューヨーカー誌には通常の文法の正しさの許容度より厳しい独自ルールがある。校正者はこのルールブックを頭にたたき込んでいて、ほとんどの場合、それを順守して文章を整える。

しかし一流の校正者の本領は、作家が規範を逸脱したときにどうするかの判断にある。ニューヨーカー誌に寄稿するのは並の作家ではない。もちろん一流の作家もうっかりミスをする。ミスなのか意図的な逸脱なのか。一流の作家がルールを逸脱したとき、校正者はその意味を考え抜く。そして逸脱したほうが作家の表現したい意味が伝わると判断すれば逸脱を許容する。

一流の達人があえてする逸脱を人は独創性と受け止め、その人の味と感じる。しかし逸脱が程度を過ぎれば誤りか理解不能と思われてしまう。独創性は、ギリギリの線での規範からの逸脱なのである。分野を問わず、ギリギリの線がどこかを直観的に見極められるのが本当の達人である。

認知科学では一流の達人と、普通の熟達者の行動や心の働きの違いが研究されてきた。普通の熟達者も仕事を早く正確にそつなくこなすことができる。両者を隔てるのは独自の味(スタイル)を確立しているかどうかである。ギリギリの線での逸脱を可能にするのは柔軟で臨機応変な判断力であり、それを支えるのは優れた直観である。

ここで、一流の達人とは「各分野に単一の基準で全員を比較した時にトップの人」ではないことを言っておきたい。一流の達人たちはそれぞれ異なる軸で規範から逸脱し、独創的である。だから、その分野には多様な達人の集積がある。そこに面白みも味も生まれるし、協同してプロジェクトを行う意味も出てくる。

AIは日々進化し、どんどん人間の知性に近づいている。しかしAIが近づいているのは「普通の熟達者」である。生成AIはその学習の仕組みの故に、学習材料の平均を出力する。質の良い学習材料を人間が選んで学習させれば、熟達者の平均は出力できるだろう。

しかしギリギリの線での独自の逸脱ができる、一流の達人のパフォーマンスを出力することは原理上できないはずだ。一流の達人は唯一無二の味や特徴をもって規範から逸脱しているからである。一流の達人を集めて平均を取っても、それで唯一無二の味や特徴を再現することはできない。

翻って、AIが作り出す「熟達者たちの平均を反映した普通の熟達者」をいくら集めても多様性は生まれないだろうし、逸脱も生まれない。つまり独創性が生まれないということだ。

逸脱をしない普通の熟達者は、AIにとって代わられるかもしれない。するとこれから社会で活躍できるのは一流の達人のみになるのだろうか。普通の人間や熟達者が、充実感と誇りをもって生きることはできなくなってしまうのか。

◇   ◇

ここでオンリーワンの達人はどのように生まれるのかを考えよう。人は誰でも素晴らしい学習能力をもつ。乳幼児は大人の言語インプットを分析し、規則性や意味を発見・記憶し、小さな知識を創る。その知識を、「アブダクション推論」によってすでに持っている知識と組み合わせることで拡張していく。

アブダクション推論には誤りがつきものである。しかし誤りを犯したら修正すればよい。そして自ら創った様々な分野の知識を関連付け、大きな体系を作る。知識を繰り返し使うことで身体の一部にする。身体化された知識は直観に変わり、臨機応変に使えるようになり、逸脱を可能にする。

現在の生成AIは、範囲をプログラマーが上手に限定すれば、その分野内では「知識の体系」の構築が可能になりつつあるそうだ。しかし人間のように分野を越境して新たな知識をつくることはしない。AIを道具として使いながらも新たな知識、独創的な知識を創造するのはあくまで人間だ。

AI時代を生き抜くのに必要なのは、AIを使う能力自体ではない。オンリーワンの達人になるという目標に向かって、自分でどこまでも学び続けることができる能力だ。私はこれを「学力(=学ぶ力)」と呼ぶ。

AIを道具として使うか使わないか、どう使えばよいのかは学び手自身の目的によるべきだ。AIを使う目的が曖昧なまま、学校教育で多くの時間を割いてAIを使うスキルを学ばせることには疑問を感じる。

学び手に「知識を教え込んで覚えさせる」やり方では逸脱ができる達人は育たない。学び手が自ら世界を探索し、知識を発見し、組み合わせて使ってみて、間違えを修正しながら「生きた知識の体系」を創り上げることができるような教育を行うべきだ。

 

 

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