「楽しい日本」が突く本質 成長と幸福の追求両立を


本社コメンテーター 小竹洋之

 

石破茂首相は作家の堺屋太一氏に倣い、「楽しい日本」を目指す

 

「メキシコの漁師」という出所不明の寓話(ぐうわ)がある。細部を微妙に変えながら、インターネット上で流布してきた。

米国で成功を収めたビジネスマンが、旅行先のメキシコで漁師に出会う。存分に眠って目覚めると、生活に必要な分だけ魚をとりに行く毎日。仕事の後は子供と遊んだり、妻と昼寝をしたり、友人と酒を飲んだりする。ギターや歌を楽しむこともあるらしい。

ビジネスマンは無欲な漁師に助言する。もっと魚をとって売りさばき、水産会社を興して都会に進出し、上場後に高値で売却したらどうかと。金もうけの先に悠々自適の人生が待つと説くビジネスマンに、自分はその暮らしをもうしていると漁師が告げる。

石破茂首相の論考集「私はこう考える」の中にも、同じ寓話が登場する。そして「私たち日本人は、今までの価値観に縛られることなく、もっと多様な『人それぞれの幸せ』を求めるべきではないのでしょうか」と続く。

不評だった施政方針演説

先の施政方針演説は、その延長線上にあったのだろう。明治維新後の「強い日本」、第2次大戦後の「豊かな日本」に続く「楽しい日本」を目指す――。作家で経済企画庁長官も務めた故堺屋太一氏の遺作「三度目の日本」に倣い、多様な価値観を持つ国民全てが輝ける国家づくりを唱えた。

「軽薄」「幼稚」「優先順位が違う」……。国内の評価は芳しくない。多くの人々が物価高にあえぐなかで、これからは「楽しい日本」だと胸を張られても、違和感を覚えるのはやむを得まい。

2024年の実質GDP(国内総生産)成長率は、0.1%にとどまった。ダイハツ工業の認証不正に伴う自動車の生産停止などで、1?3月期にマイナス成長に陥った特殊事情が大きく、4?6月期以降は底堅い回復が続く。

それでもSBI金融経済研究所の増島稔研究主幹(元内閣府経済社会総合研究所長)は警戒を怠れない。「消費中心に需要は弱く、人手不足が供給を制約する。物価や賃金が上昇しても、成長と分配の好循環には至っていない」

国民の豊かさを示す1人当たりの名目GDPは、23年のドル換算で経済協力開発機構(OECD)加盟38カ国の22位にとどまり、主要7カ国(G7)では最低の水準に沈む。22年に韓国に抜かれただけでなく、24年には台湾にも追い越されていた可能性がある。

期停滞からの脱却を確実に

堺屋氏の遺志を継ぐ石破氏も、「強さ」と「豊かさ」が伴ってこその「楽しさ」だと言いたかったようにみえる。何より「失われた30年」と呼ばれる長期停滞から確実に脱却できなければ、国民の共感を得るのは難しかろう。

画一的な日本型システムの見直しを迫られている(2024年11月、東京・丸の内)

米誌フォーチュンがまとめた世界の主要企業500社の売上高番付をみると、日本企業は過去30年弱で約150社から約40社に減った。内閣府によれば、日本の非金融法人が抱える現預金残高のGDP比率は60%で、米国の17%やドイツの20%を大幅に上回る。

改善の兆しがみられるとはいえ、稼ぐ力も投資の意欲も賃金への還元もまだ足りない。「JTC(ジャパニーズ・トラディショナル・カンパニー)」と揶揄(やゆ)される伝統的な日本企業が、過剰なリスク回避や前例踏襲の経営を脱し切れていない証拠だ。

政府の成長戦略も滞る。石破氏率いる少数与党は、野党が望む所得税の非課税枠「103万円の壁」の引き上げや、高校授業料の完全無償化といった分配政策の調整に終始する。人工知能(AI)や半導体の投資拡大、脱炭素やデジタル化の加速、抜本的な労働市場改革に踏み込む余力は乏しい。

成長が全てだと言いたいのではない。1人当たりのGDPが増えても、国民の幸福感が高まるとは限らない――。米経済学者のリチャード・イースタリン氏が1974年に唱えた「幸福のパラドックス(逆説)」は、成熟した今の先進国で一層重い意味を持つ。

さりとて安易な脱成長論や反成長論に傾くわけにもいくまい。衣食住を満たす最低限の経済基盤が侵食されたままで、幸福を感じるのが難しいのは、インフレ下の世界を見渡せばよくわかる。冒頭の漁師もそれは同じだろう。

「強さ」「豊かさ」「楽しさ」の同時追求を

日本で成長と幸福をどう両立させるのか。大企業がグローバルに勝ち抜く「強さ」。地方の主要拠点への集住やサービス業の活性化で実現するローカルな「豊かさ」。モノ消費からコト消費(観光、グルメ、エンタメなど)への移行で得る「楽しさ」。IGPIグループの冨山和彦会長が訴えるのは、3つの目標の同時追求だ。

戦後の日本は安全、安心、清潔、正確、平等を保証する「天国」を官僚主導で築き上げた一方、面白みや「3Y(欲、夢、やる気)」のない社会をもたらした――。堺屋氏の著書には、確かに考えさせられるところが多い。

「『楽しい日本』の本質は画一性を排し、多様性を引き出すという点に尽きる。石破氏が学ぶべき点もそこにあるのではないか」とニッセイ基礎研究所の小原一隆主任研究員は話す。個性を封じる日本型システムの諸改革は、成長にも幸福にも資するはずだ。

トランプ米大統領の高関税砲などで、世界経済の行く末が案じられる時に、悠長な議論に過ぎると切って捨てるのはたやすい。だが国力を強めつつ、国民のウェルビーイング(健康で満ち足りた状態)を高めるのは永続的な課題だ。「楽しい日本」の発想そのものを、葬り去ってしまうのは惜しい。

 

 

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