23/05/28 講演ダイジェスト
散心の中の一心
兵庫県・大蓮寺副住職
中原寿衛師
社会学や心理学の用語に、コンサマトリー(自己完結的・自己目的)とインストゥルメンタル(道具的)という言葉があります。
例えば、仕事が楽しくてそれ自体に生きがいを感じる人は、仕事で目的が達成するのでコンサマトリーな働き方といえます。
一方、仕事がお金を稼ぐための道具であれば、インストゥルメンタルな働き方といえます。これはどっちが良い悪いという話ではなく、私たちは無意識のうちに両方の行動をしています。
では私たちがしている信仰はどうでしょうか。例えば、病気が治って欲しいと願って信仰している人には、病気が治ることが目的なので、インストゥルメンタルな信仰ということになります。
一方で、御本尊に向かってただお題月を唱えているだけで幸せだとか、毎日勤行をしないと気持ちが悪いという人は、唱題や勤行そのものが目的なのでコンサマトリーな信仰と言えます。私は信仰にもそういう両面があると思います。
さて本日は私が30年前に、ある方から質問された「私たちは勤行をする時、御本尊の前に座り、何を考えながらお題目を唱えればよいでしょうか」という問題についてお話します。
私の頭の片隅にはこの質問がずーつと残り続けていて、答えられなければ先に進むことはできない課題として存在しっづけてきたのです。
今日はコンサマトリーな信仰の立場から、お題目の唱え方について考えたいと思います。お題目を何かの目的のために手段として唱えるのではなく、お題目を唱えること自体に価値を置く、お題目を唱えている状態がすでに目的を果たしている、という立場で考えることです。
日蓮大聖人は「日女御前御返事」に「此の御本尊全く余所に求むる事なかれ。只我等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり(略)南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切なり」と仰せのように、私たちが南無妙法蓮華経と唱えている姿が、すでに仏であり本尊であると仰せです。
では、このお題目を唱えて仏になっている時、私たちの頭の中には色んな雑念が渦巻いているのか、それとも波だたない水面のようにンとした無の状態なのか、どうなんでしょうか。
大聖人は「守護国家論」に、「妙楽大師は禅定三昧に入らず、散心でも法華経を読め。坐り・立ち・歩く中、ただ一心に法華の文字を念じよ』.と勧められ、(略) 『散心』とは日常の散乱する心のことで、『坐り・立ち・歩く中』とは、行住坐臥どのような時でもという意味である。『一心』とは特別な一心ではなく、散乱する日常の心の一心のことである」と仰せです。
つまり大聖人は「坐禅や瞑想をするなど特別な心の状態をつくる必要はない、日常の散乱する心の状態でもお題目を唱えなさい」と教えられています。
ということは、勤行の時に色々な雑念が湧いてきても気にせず、そのままお題目を唱えれば良いということでしょうか。まだよく分からないので、その後の「行住坐臥どのようなときでも」という言葉に着目すれば、日常生活のあらゆる場面でお題目を唱え、心に念じなさいということになります。
この言葉で私は、子どもの頃に出会った一人のおばあさんを思い出しました。その方は椅子から立ち上がったり、お仏壇のローソクをつける時「南無…」とつぶやいておられました。私は「変わったおばあちゃんだな」と思ったのでした。
しかし、今になって考えると、あれこそが大聖人のおっしゃる散心の中で唱えるお題目だったのかと、合点がいったのです。
そこで、私も試しに一日、思い出した時にはお題目を唱えたり、心の中でお題目を念じたりと実践しました。
朝、顔を洗い歯を磨き、ヒゲをそり、掃除機をか廿ながら、コーヒーを淹れながら、車を運転する時も、トイレに入った時も、心の中でお題目を唱えてみたのです。
実際にやって分かったのは、日常生活の中でお題目を口ずさみ念じている時は余計なことを考えていない、ということです。
もう少し丁寧にいうと、いつもやっているように半自動的に身体を動かす中でお題目を唱えていると、余計な思考が入ってこないのです。
いつも朝の洗顔の時間はラジオでニュースを流し、あれこれ考えごとをしていました。掃除機をかける時は、子どもたちの脱ぎっばなしのパジャマを見て「また散らかして‥」とイラつくこともあります。
何をしていても、頭の中を考えごとが入れ替わり立ち替わりしていたのですが、心の中でお題目を唱えてみるとそういう雑念が追い出されたのです。
すると自然と動作がゆっくり丁寧になります。掃除機をかける時は目の前のゴミを吸うことに集中し、早く終わらせよ,ユとする焦りも、散らかっていることに対する怒りも消えます。
車の運転でもハンドルやアクセルの操作がゆっくりになり、いつもより安全確認を丁寧に行っていました。
このように日常生活の中でお題目を唱えてみると、先ほどのお言葉にあった「散心の中の一心」とは、雑念をほったらかしにするのではなくて、日常の中で心が散らかりがちな時にこそお題目を唱えなさい、という教えだということが体感できました。
これは誰でもすぐ体験できることなので、皆さんもぜひやってみてください。
「四条金吾殿御返事」には「一切衆生、南無腱法蓮華経と唱ふるより外の遊楽なきなり。(中略)遊楽とは我等が色心依正ともに一念三千自受用身の仏にあらずや」と仰せです。
簡単にいうと、「南無妙法蓮華経と唱える他に楽しみはありません。私たちの身と心が仏となること以上の楽しみなど、どこにあるでしょうか」とおっしゃっています。
私たちは、普段たくさんの楽しみに囲まれて生きています。美味しい物を食べ、温かい温泉に静かり、旅先で絶景を観るという楽しみもあるでしょう。
そのような楽しみを体験している時、皆きんは何を考えていますか? おそらく何も考えていないのではないでしょうか。
例えば、美味しいお肉を口にした瞬間、その昧を余すことなく味わうために、目をつぶって何も話さず、ただただその事せな瞬間を堪能するでしょう。
また、寒い冬に温泉を訪れたら、湯につかった瞬間、お腹の底からハアーツという深いため息が出て、身体中にお湯の熱が染みこんでいくのを、ただただ感じているのではないでしょうか。
また、旅先で絶景などを目の前にした時、とりあえずスマホを取り出して写真を撮ろうと構えますが、カメラではその感動が全く伝わらないことに気づいて、自分の目に焼き付けよう、今味わっている感動を大切にしよう、と思ったことはないでしょうか。
このように、私たちは人生の楽しみを体験するときには、余計なことは考えず、ただその楽しみを味わうことに集中できているのです。
ですから、お題目も美味しい物を食べる持と同じように、一口一ロ噛みしめながら味わうようにすればよいのです。
「今こうして御本尊の前に座る時間を持てていることが幸せだ」「お題目を唱えて仏になれていることがありがたい」という気持ちを持って、その楽しみ・喜びをしっかりと味わうのです。
l先ほどの大聖人のお言葉を借りれば、南無妙法蓮華経を唱えるという人生最上の遊楽のためだけに、今ここに座っている。これほど贅沢な時間はない、ということになります。
それを一言でいえばお題目の一遍一遍をかみしめながら唱え、今仏になれていることの喜びをしっかりと味わうこと」です。
これが、私の30年来の宿題である「お題目を唱えている時に何を考えればよいのか」という質問に対する答えといってよいと思います。
そして、今日私がお話したことは唯一の答えではなく、いくつかある答えのうちの一つを私が選んだ、と思っていてください
今日は大きく分けて3つの話をさせていただきました。
@これからの時代は信仰生活そのものを目的とする「コツサマトリーな信仰のあり」が、多くの人に受けられていくのではないか、という話。
A「散心の中の一心」日常生活の中で散らかった心の時こそ、お題目を心に念じてみましよう、という話。
Bお題目を唱えるときは、「人生最上の楽しみを噛みしめ味わうつもりで唱えましょう」という話でした。
皆様の信仰生活に少しでも参考になれば幸いです。
ご清聴いただきまして、誠にありがとうございました。また、皆様とお会いできる時を楽しみにしております。