道標
仏の知見を得る
以前はアメリカ・メジャ ー リーグの野球など関心が薄かった日本人が、このところ大谷翔平選手の評判で連日もちきりである。名選手が並み居る大リーグでも大谷選手の活躍ぶりは突出し特に打球の速さと遠くへ球を飛ばす技術は超弩級のようである。打撃でもキャッチボールでも基本は球をよく見ることだという。動く物体を瞬時に正しく見極める視力を胴体視力といい、これは視力の改善だけで身につくものではない。むしろ生まれ持った感性といえるが、仏教ではものごとを正しく見る正見が求められる。では私たちはどのようにしてこの正見を手に入れることができるだろうか。
諸仏がこの世に出現される目的は一切衆生を平等に成仏させることである。『法華経』にはそれを「衆生をして開示悟入の四仏知見に入らしむ」と説かれている。
開示悟入とは、仏の智慧・見識を人々に開示し理解させ、仏と同じ境界に入らしむことである。
大多数の人々は、目を開けば周囲の景観が目に飛び込んでくるから、何も考えなくても自然にその場の状況を把握できる。だがそれは表面的な形態を知っただけで、すべての実状を理解できたことではない。逆に眼の不自由な人は、その対象を理解するために五官(目・耳・鼻・舌・皮膚)のすべてを働かせ、全身で状況を感じ取ろうとするから、かえって健常者より真実を見ることがある。
仏の知見とは私たちが目で見る形態ではなく、五官全体で真実を覚り幸せになることゆえ、仏は「四仏知見」を教え、大聖人は「開目」といわれた。
よく空を飛ぶ鳥の群れを見て、その数を当てようとすることがある。概して私たちは端から1羽、2羽と数えるが、それでは全体を数え終わる前に鳥は飛び去ってしまう。これを数えるには、全体を映像として捉え、その一部分に何羽の鳥がいるかを数えて、全体の数を知る方法がよいという。それがものごとを正しく見る方法であり、一瞬の映で全体を判断する能力は、仏の知見に通じるものがあるか。
信仰は六棍を清浄にして真実を見極めることである。そのためには欲や面子、世間体などの執着を排除しなければ、正しく見ることはできない。
日常生活においても、現状の不備や不足を数えたてて、嘆いたり怒ったりするのりではなく、今ある利点に感謝の念をもって、その恩恵にどう報いていくかを考えることが、幸せにつながるのである。そのために凡夫のもつ邪見や偏見ではなく、仏の知見でものごとを正しく見ることが求められる。
ではどのようにして仏の知見を手に入れ、開目すればよいのか。末法の世では数ある諸仏の教えや、法華経でも文上の教えは約に立たないとはとは大聖人の誡めである。神社仏閣にお参りして、現世利益を求めても仏の知見は得られなし、成仏はできない。
私たちの濁りきった六根を清浄にして、正しい知見を得る方法はお題目を唱えることである。めまぐるしい現代社会で毎日、前ばかり見て猪突猛進して生きていれば、つい眼前のものごとしか目に入らない。目を閉じて大聖人のお姿を思い浮かべ、心静かに唱題するならば、自然と心も浄化され、臨終正念の境界に到るのである。