道標
題目を唱え自他共に成仏を
先月26日、岩手県大船渡市で発生した山林火災は、鎮火することなく延焼しつづけ、地元住民は何日にもわたり難渋を強いられた。
東日本大震災から13年を経てこの地域には、津波被害を教訓に海辺を離れて高台へ転居し、ようやく日常生活に慣れた人々もいるのではないか。
そこへこの山火事で、また自宅を離れて避難生活を余儀なくされることは、昨年正月の能登半島地震から9か月余りで、豪雨被害にあった能登の人たちにとっても、他人事とは思えない痛恨事だろう。
しかし俗に「止まぬ雨はない」 「明けぬ夜はない」という。今はどれほどつらい状況でも必ず終息し、やがてきっとよい状態に変わると信じて、希望を捨てないで欲しい。
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夜が明けて明るくなる時間が、日ごとに早くなりつつある。
今月は彼岸である。彼岸の中日には太陽が真東より昇って真西に沈むため、昼と夜の長さが同じになる。その現象を時正という。
念仏宗などでは、末法濁悪の衆生を救済するのは、西方の極楽浄土に住む阿弥陀和来であると説く。それは法華経の教えに違う誤ったものだが古来、多くの念仏者が西方極楽世界を目指して、際限なくどこまでも歩き続けたり、大海原を渡海するなどしてきた。
その阿弥陀仏が住む真西の方角を正しく知るのは、時正の日でなければならないと。時正には正確な時刻や方角などの意味がある。
一般に、命日や年回忌、お盆の法要などは先祖や故人の霊を弔い追善回向することが目的といえる。
しかし、春秋2季の彼岸は自分が成仏するために六波羅蜜(=布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)の修行をすることが目的である。この6種を現代風にいえば、利他・道徳・忍耐・努力・理性・理知などに、いい換えられる。
しかし大聖人は「もしもすべての修行を実践し、我が身にあらゆる善根を積んでみても、それは貧窮の人が昼夜を問わず隣の家の財を数えるようなもので、自分には一銭の得にもならない」 (一生成仏抄)と誡められている。
そして、「凡夫が六波羅蜜を修行しなくても、その功徳は自然に目の前に現れる」 (無量義経)との経文を根拠にして、法華経の題目を受持するならば、その功徳は自然と得られると仰せである。
経文に「婆婆即寂光」といい、私たちが住む婆婆世界は忍土と小われ、苦悩が充満する世界であるが、そこがそのままで浬欒の寂光土になる、と説くのが法華経の教えである。
私たちがせっかくその寂光土に住しながら妙法蓮華経の題目を信行受持することなく、夢うつつで西方に極楽浄土を求めてさまようならば、それは「宝の山に入りながら手を空しくして帰るなかれ」 (正法念処経)という試めに背くことになる。法華経を離れて甲斐無き修行を試みることは無益なのである。
徴岸には菩提寺に参詣して、大波羅蜜の功徳が凝縮されている妙法蓮華経の題目を唱え、自他共の成仏をご祈念することが、正しい彼岸のあり方であり、成仏の直道であると心得たい。