道標
競技の目的は何?
2月16日から25日まで韓国で開催された、卓球の世界選手権団体戦で、日本女子選手は53年ぶりの優勝を目指した。しかし5大会連続で優勝している中国の前に、決勝であと一歩及ばず銀メダルに留まった。試合内容はほぼ互角の戦いといってもよく、今夏のパリ五輪に向けて課題と希望が見いだせた。
◇ ◇ ◇
競技は技術や体力など、その能力の優劣を競いあうもので勝つか負けるか、または引き分けなどの結果判定になる。故にそこへ至る練習や稽古では無駄を減らして、最短の距離を合理的に探り、勝つために何をすればよいのかが求められる。
だが競技の目標は、試合に勝つことだけだろうか。昔から「勝敗は時の運」ともいい、「試合に負けて勝負に勝つ」という言葉もある。競技を通じて学ぶべきことは、勝つか負けるかの結果だけではない。たとえ敗北や挫折をしても、それを乗り越えて成長することが肝心で、私たちが競技から真に学ぶべきものはむしろ後者ではないのだろうか。
それは他人と比較した優劣の判定を越え、まず自分が競技に何を求めるかをしっかりと見つめることから始まる。そして競技の結果がよくなくても投げやりにならず、相手の力が自分よりも上であることを認め、気持ちを切り替える。そのうえで、さらなる技や人格の向上を目指して、努力を続けられるかどうかである。
それを意識せずに、勝敗の結果や序列だけにこだわれば視野は狭まり、勝つための近道や合理的な方法ばかりを追い求める。それは、技を競う目的の真髄から離れてしまう。もっとも大切なのはどんな困難があろうと、自分が決めた目標に向かう精神と努力を断念しないことである。そのことは本果妙の仏法ではなく、本因妙を説かれた大聖人のご一生を拝せば理解できる。
◇ ◇ ◇
大聖人は北条時頼を折伏して、法華経に帰依させただろうか、また東条景信邸に御本尊を安置させたろうか。肝心なことはそこではない。どれほど迫害されて所を追われようと、法華経の行者として生涯にわたり、自他共に折伏し、法華経弘通を貫くかれたことである。これは大聖人のお考えが、結果に比重を置く本果妙の教えではなく、そこに至る途中経過とその姿勢を重視されていたからであり、それが本因妙の仏法である。
私たちの人生も、自分たちの努力や頑張りで何とかなるものと、頑張ってもどうにもならないことがある。目標を決めてそれを達成することは立派だが、より大切なのは目標に向って最後まであきらめず、努力精進したかどうかであり、その結果や序列は二の次なのである。競技で優勝できるのは一部の人だが、そこを目指して努力した人はみな勝者といえる。
私たちの信仰の目的も、拝むことで財産が増えたり、病気が治ったり、名誉を手に入れることなどではない。どんなに苦しくつらく
ても逃げ出さず、歯を食いしばって生きていく姿が目標(=成仏)であり、それが心豊かな人生だと肝に銘じたいものである。