42 ひとつの涙――日蓮大聖人のもう一つのお姿
 
 

 日蓮大聖人の晩年、身延在山9ヶ年の内、建治3年以降の6年間は病との闘いであられた。長年の心労と、佐渡での厳しいご生活は大聖人の体を蝕まずにはおかなかった。そしてその弱ったお体には、夏は暑く冬は凍てつく身延はけっして過ごしやすい地とはいえなかったであろう。

 建治3年の大晦日、突如はらのけ(下痢)が始まり、それは翌年6月、四條金吾の調合した薬によって小康を得るまで続いた。その後は一進一退であったが、弘安4年には症状がふたたび悪化し、正月から食も咽を通らず、苦しい日々を送られるのである。

 だが、こうした身体的に劣悪な状況と反比例するかのように、この時期の大聖人のご事跡を拝せば、ご法門の成熟・完成度の点からも、また門下全体の活動の充実振りからも、まさに円熟期といってよいだろう。

 弘安元年から2年にかけては熱原法難があった。この時大聖人は日秀・日弁に滝泉寺院主代行智の悪業を幕府に訴えさせるべく、自ら筆を執られて『滝泉寺申状』を書かれたり、事の推移を逐一報告させ、きめ細かな、そして情愛に満ちた指示をされている。日興上人を始め門下や熱原法華衆は、この大聖人のお心によく答え、不退の信仰を磨きそして貫いた。大聖人はこの門下挙けての法難の最中「わが本懐なり」とまで仰せになられたが、そこに病と闘われる大聖人のお姿を想像するのは難しい。

 また弘安5年2月、南條時光は死ぬか生きるかの大病を患うが、大聖人は気迫のこもった一通の書状をしたため、烈火のごとく時光を悩ます鬼神を呵噴されている。『法華証明抄』である。この時大聖人はとても筆を執れるような状態ではなく、それをおして認められたのだが、その文面からはそのような厳しい状態であることは想像だにできない。

 では大聖人は重い病気の中でも、超然として筆を執られ、そして門下を激励されていたのであろうか。大聖人程の方は苦を苦とも感じられないのであろうか。

 弘安4年も押し詰まった12月、大聖人のもとへ上野殿母尼御前から白米・清酒・ひさげ(酒などを入れる器)・かんきょう(薬草)が送られてきた。大聖人のご病気を気遣われてのことである。その御返事。

今年は春よりこのやまいをこりて、秋すぎ冬にいたるまで、日々にをとろへ、夜々にまさり候つるが、この十余日はすでに食もほとをど(殆ど)とどまりて候上、ゆきはかさなり、かん(寒)はせめ候。身のひゆる事石のごとし、胸のつめたき事氷のごとし。しかるにこのさけ(酒)はたたか(温)にさしわかして、かんかう(かんきょう=乾薑)をはたとくい切りて、一度のみて候へば、火を胸にたくがごとし、ゆ(湯)に入るににたり・あせにあかあらい、しづくに足をすすぐ。此御志ざしはいかんがせんとうれしくをもひ候ところに、両眼よりひとつのなんだをうかべて候。(『上野殿母尼御前御返事』)

 食ものどを通らない。冷えきった体に、身延の冬はこたえる。その冷えた体に今上野殿母尼から送られたお酒をあたたかに沸かし、薬草の乾薑とともに口にすれば、五臓六俯にしみわたる。ああ有難いことだと、その志ざしにひとつの涙をうかべられる大聖人。

 このお姿を拝してこそ、もう一つの、強くたくましい大聖人のお姿が、より一層光り輝くように思う。そして、対岸の仏様でなく、自分達と同じ処に立つ仏様の有り難さを拝することができるのではあるまいか。

 

 

もどる