いま私たちがやるべきこと〜2030年の信仰
バカのままでよいはずない
久住寺執事 児玉 光瑞
◆原因は「無知」
社会の不条理に「きれいこと」で真っ直くに信念を貫く様を、しばしば「バカ正直」と表現します。おバカタレント、空手バカ一代、釣りバカ日誌などバカ〃には「無知だが一途な正直者」と肯定的な語感があります。逆に頭がいい″には「冷たい」「努力しない」「真面目でつまらない」などの否定的な語感もあります。仏さまは「さとりは無くとも信心あるものは成仏すべし」と仰せです。これは無知のまま勉感しなくてもよいという意味でしょうか? そんなわけはありません。
世間には、精神的安全を求めるあまり過剰なコロナ対応による人権侵害・無知による風評被害・先入親で革新的技術を否定するなど、無知″の弊害はたくさんあります。SDGSの「質の高い教育をみんなに」には、差別・貧困・暴力を防ぐ意図があるのです。
確かに、生まれ持った知能には個人差があり、頭の良し悪しに関わらず、すべての人が幸せになる各社会であるべき。しかしだからこそ、私たちは勉強しなくてはなりません。
◆知恵を軽く考えてませんか?
仏さまは、他人のために生きる修行をしなさいと教えられていますが、それは六波羅蜜、通称、六度の修行と呼ばれるものです。そしてその功徳は、すべてお題目に含まれます。ですから、お題が基本的な修行です。では、お題目さえ唱えれば何をしてもいいのでしょうか。
では、お題目さえ唱えれば何をしてもいいでしようか。例えば唱題する人は何百万といますが、その中に犯罪者だっているかもしれません。その全員が成仏の姿といえるでしょうか。違いますよね。「信心あるものは成仏すべし」とは、信心があれば自然に六度の修行が具わってくるという意味なのです。
六度の修行とは、布施=他人に施す、持戒=自分を戒める、忍辱=耐え忍ぶ、禅定=心静かに落ち着く、精進=心身ともに努力する。この5つは、分かりやすいですよね。しかし「智慧の修行」とは具体的に何をすればいいのかピンときますか。何となくじゃなく、きちんと言葉で説明できますか。そうなんです。「智慧とは何か」がボンヤリしてるから、私たちはずっと智慧の修行をしてこなかったのではないでしょうか。なにせ智慧がないと具体的に自分のどこが無知なのかすら気づきませんからね。
これを仏教では「無明」といい、哲学では「無知の知」と言って紀元前から指摘されています。勉強もせずに「最高の教えだ」といって法華経を弘めようとしても、他人が納得するはずもありませんよね。
◆智慧とは帰納法
智慧とは記憶力、ではありません。学校で習得できるとも限りません。なぜなら、仏さまの時代は学校も現代の知識もないのですから、仏教は現代の役に立たないということになってしまいます。そんなわけありませんよね。いま仏さまがいれば、社会を観察したり勉強したりして、ご自身で社会問題の解決策を導き出すことでしょう。では、智慧とは何でしょうか。
簡単にいえば、智慧とは帰納的推論です。枝葉から、根幹たる本質を考えるということです。社会のさまざまな事象を観察し、そこから普遍的な法則を見出し、物事の本質を導き出す思考法です。ただし帰納法は、観察が誤っていれば、結論も誤ってしまいます。先入観や煩悩があれば、真実は導き出せないのです。社会を見れば、己の無知に気づけない「なんちゃって知識人」が不確かな情報をバラまいているので注意が必要です。
私たちには、智慧が足りません。しかし信心があるからこそ、社会課題を解決すべく勉強しなければなりません。他人から教えられる知識は、智慧とは呼びません。それは「声聞」という境界。絶対に成仏できません。これまでに得た知識を使い、時には自分の知識を疑い、客観的に世の中を見て自分の頭で考える姿こそが、智慧の修行なのです。